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書評と金田一輝に関するpolynityのブックマーク (4)

  • 落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』つづき - 金田一輝のWaby-Saby

    落合仁司による無限集合論の「パラミズム」、すなわち神の質と活動の差異への適用は、さらにめちゃくちゃだ。 「神の活動を無限集合とおいてみよう。(・・・) この神の自己の多様な部分、神の活動の多様な部分を、神の活動という無限集合の部分集合と考えることが出来る。(・・・)このとき神の質を、神の活動の多様な部分の総和、神の自己の多様な部分の総和と考えることは出来ないか。すなわち神の質を、神の活動という無限集合の全ての部分集合の集合、ベキ集合と考えるのである。 こう考えることによって神の質と活動の関係に対して、集合論の定理2「無限においては、部分の総和が全体を超える。」あるいは「無限集合は、自らのベキ集合に自らを超えられる。」が適用できる。すなわち神の活動が無限集合であり、神の質がそのベキ集合であるとするならば、定理2により、「神の質は、自己の活動(自己自身)をも超越する。」という命題が

    落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』つづき - 金田一輝のWaby-Saby
  • 神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★ - 金田一輝のWaby-Saby

    三位一体(三一性)のような神学の命題は、無限集合論を使って表現できる。表現できるばかりでなく証明できる。こうしたアイデアから、落合仁司は「数理神学」の名の下、同工異曲のを次々に出版した。これはその中の一冊。 一見、論理的、学術的に書かれているが、根的な神学理解が怪しい。たとえば、落合による三一論の「証明」を見てみよう。 「神の質を無限集合とおいてみよう。(・・・)神の実存は、Aと述語づけられるキリストと、Bと述語づけられる聖霊と、AでなくかつBでないと述語づけられる神ご自身とに区別される。あるのものxをAと述語づける、すなわち「xはAである」と言うことは、取りも直さずxをAという性質を持つ集合の要素とすることに他ならない。したがって神の実存を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという三つの述語によって区別することは、神の「〜である」、神の質という無限集合を、Aと、Bと、AでなくかつB

    神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★ - 金田一輝のWaby-Saby
  • 般若心経解釈の革命――宮坂宥洪『般若心経の新世界―インド仏教実践論の基調』★★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    般若心経は「経」ではない。般若心経の「心」は、「心髄」という意味でも、ましてや「こころ」という意味でもない。 こんなことをの中で主張しているのを見たら、あまたある般若心経を読んだ方々は「まさか!?」と思うことだろう。しかし、まさしくこのは、こうした既成の般若心経解釈にとらわれない驚くべき命題を、インド仏教史を背景に、文献的、また論理的に証明している。心ある読者は読み進めていくにつれ、他に比して、著者の般若心経解釈が非常に整合的で明快なことに気づくだろう。 最も重要なのは、般若心経の世界が階層構造を持つ(あるいはそれを前提とする)ということを明らかにしたこと。般若心経の垂直的ダイナミズムが、はじめて開示された。人生訓めいた般若心経解説が、実は単なる「世間知」のレベルを水平移動しているに過ぎないことが、これで分かる。 もちろん、著者の解釈が絶対的だとか最終的だとか言うことはできない。いか

  • お遍路の真実――家田荘子『四国八十八ヵ所つなぎ遍路』★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    真言宗僧侶でもある著者の歩き遍路の記録。「つなぎ遍路」とは、一度にではなく、何回かに分けて八十八ヶ所を廻ること。 ガイドブック的な使いやすさ・分かりやすさはないが、歩き遍路ならではの、トイレの有無や道の選択についてのアドヴァイスなど、貴重な情報もある。ただし、総合的な情報などは、まとまって書いているわけではないので通読する必要がある。 このの美徳はむしろ、お遍路の道中出会った、善意の人々とともに、心無い人々のこと、そしてそれに対する率直な怒りの念を書き記していることだ。当たり前のことながら、お遍路もキレイゴトばかりではない。それにもかかわらず、読むものに、お遍路への出立をかきたてる力のある一書である。 四国八十八ヵ所つなぎ遍路 (ベスト新書)

    お遍路の真実――家田荘子『四国八十八ヵ所つなぎ遍路』★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby
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