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ブックマーク / kanedaitsuki.hatenadiary.org (14)

  • 父からか、父と子からか、それが問題だ――Joseph P. Farrell trans."The Mystagogy of the Holy Spirit"★★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    フィリオクエ論争において、東方教会側の立場を代表する聖フォティオスの論文の翻訳。 ファレルの解説が素晴らしい。西方教会(ラテン教会)への、アウグスティヌスを介したギリシャ的思考(ネオ・プラトニズム)の抜きがたい影響が、フィリオクエ付加に至る神学を形成したと指摘し、非常に新鮮な視角を提供している。 西方キリスト教会の思考の強い影響下にある国々の人は、フィリオクエ論争を単に言葉尻の問題ととらえがちである。実際、日で普及している『岩波 キリスト教辞典』の「フィリオクエ」項では、東西に「大きな違いはない」と記述している。 真にエキュメニカルな対話のためには、まず率直に違いを認めることからはじめるべきである。その意味で、このフィリオクエ論争に関する基文献は、東西両方にとって欠かせない一書と言えよう。

    父からか、父と子からか、それが問題だ――Joseph P. Farrell trans."The Mystagogy of the Holy Spirit"★★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby
  • 落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』つづき - 金田一輝のWaby-Saby

    落合仁司による無限集合論の「パラミズム」、すなわち神の質と活動の差異への適用は、さらにめちゃくちゃだ。 「神の活動を無限集合とおいてみよう。(・・・) この神の自己の多様な部分、神の活動の多様な部分を、神の活動という無限集合の部分集合と考えることが出来る。(・・・)このとき神の質を、神の活動の多様な部分の総和、神の自己の多様な部分の総和と考えることは出来ないか。すなわち神の質を、神の活動という無限集合の全ての部分集合の集合、ベキ集合と考えるのである。 こう考えることによって神の質と活動の関係に対して、集合論の定理2「無限においては、部分の総和が全体を超える。」あるいは「無限集合は、自らのベキ集合に自らを超えられる。」が適用できる。すなわち神の活動が無限集合であり、神の質がそのベキ集合であるとするならば、定理2により、「神の質は、自己の活動(自己自身)をも超越する。」という命題が

    落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』つづき - 金田一輝のWaby-Saby
  • 神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★ - 金田一輝のWaby-Saby

    三位一体(三一性)のような神学の命題は、無限集合論を使って表現できる。表現できるばかりでなく証明できる。こうしたアイデアから、落合仁司は「数理神学」の名の下、同工異曲のを次々に出版した。これはその中の一冊。 一見、論理的、学術的に書かれているが、根的な神学理解が怪しい。たとえば、落合による三一論の「証明」を見てみよう。 「神の質を無限集合とおいてみよう。(・・・)神の実存は、Aと述語づけられるキリストと、Bと述語づけられる聖霊と、AでなくかつBでないと述語づけられる神ご自身とに区別される。あるのものxをAと述語づける、すなわち「xはAである」と言うことは、取りも直さずxをAという性質を持つ集合の要素とすることに他ならない。したがって神の実存を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという三つの述語によって区別することは、神の「〜である」、神の質という無限集合を、Aと、Bと、AでなくかつB

    神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★ - 金田一輝のWaby-Saby
  • 般若心経解釈の革命――宮坂宥洪『般若心経の新世界―インド仏教実践論の基調』★★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    般若心経は「経」ではない。般若心経の「心」は、「心髄」という意味でも、ましてや「こころ」という意味でもない。 こんなことをの中で主張しているのを見たら、あまたある般若心経を読んだ方々は「まさか!?」と思うことだろう。しかし、まさしくこのは、こうした既成の般若心経解釈にとらわれない驚くべき命題を、インド仏教史を背景に、文献的、また論理的に証明している。心ある読者は読み進めていくにつれ、他に比して、著者の般若心経解釈が非常に整合的で明快なことに気づくだろう。 最も重要なのは、般若心経の世界が階層構造を持つ(あるいはそれを前提とする)ということを明らかにしたこと。般若心経の垂直的ダイナミズムが、はじめて開示された。人生訓めいた般若心経解説が、実は単なる「世間知」のレベルを水平移動しているに過ぎないことが、これで分かる。 もちろん、著者の解釈が絶対的だとか最終的だとか言うことはできない。いか

  • お遍路の真実――家田荘子『四国八十八ヵ所つなぎ遍路』★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    真言宗僧侶でもある著者の歩き遍路の記録。「つなぎ遍路」とは、一度にではなく、何回かに分けて八十八ヶ所を廻ること。 ガイドブック的な使いやすさ・分かりやすさはないが、歩き遍路ならではの、トイレの有無や道の選択についてのアドヴァイスなど、貴重な情報もある。ただし、総合的な情報などは、まとまって書いているわけではないので通読する必要がある。 このの美徳はむしろ、お遍路の道中出会った、善意の人々とともに、心無い人々のこと、そしてそれに対する率直な怒りの念を書き記していることだ。当たり前のことながら、お遍路もキレイゴトばかりではない。それにもかかわらず、読むものに、お遍路への出立をかきたてる力のある一書である。 四国八十八ヵ所つなぎ遍路 (ベスト新書)

    お遍路の真実――家田荘子『四国八十八ヵ所つなぎ遍路』★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby
  • エソテリックな般若心経 - 金田一輝のWaby-Saby

    密教フォーラム21公式サイト「エンサイクロメディア空海」内の記事「般若心教は真言を説いたお経」は、世に蔓延る通俗解釈を破砕していて爽快であり、気になる人には是非一読を勧める。 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/ この中で特にひっかかったのは、第6章「仏母般若波羅蜜多の咒(マントラ)」 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-204.html 以上が一応の語義の説明ですが、「掲諦」から「菩提」までの各語は、実はすべて「般若波羅蜜多」の別称で、しかもそれらは女性名詞の呼格(呼びかけ語)ですから、女尊の名称なのです。 般若波羅蜜多が女尊であり、掲諦の句がそれと同義の女尊への呼びかけといえば、奇異に感じられるかも知れません。 宋(そう)の時代に漢訳した施護(せご)の経題は「聖仏母般若波羅蜜多経」とな

    エソテリックな般若心経 - 金田一輝のWaby-Saby
  • 宮坂宥勝監修『空海コレクション』1・2 - 金田一輝のWaby-Saby

    「車でお遍路」計画の下準備として、理論武装のために(笑)購入。 実は、「密教」は今まで避けていた分野。しかし、フリッチョフ・シュオンのおかげで、再び仏教全般への目を開かされてしまった。「六塵(色・声・香・味・触・法)がことごとく文字であり、声字はそのまま実相である」などという思想、かつては違和感いっぱいだったが、今ではすんなり入る。 中国およびわが国で一宗を創唱した宗祖たちは、いずれも「教相判釈」を行っている。 要するに釈尊が生涯に亘って説いた教え――経典論書――を整理して宗祖が釈尊の真の教えとして確信したものを全仏教の中核に据えて位置づけた。 ところが空海の場合には他に類例のない教相判釈をした。第一には全仏教を顕密の二教に分類して密教の特色を明らかにした。これが『弁顕密二教論』である。 そして『秘密曼荼羅十住心論』ではあらゆる顕教も高次元の密教の立場からすればすべて密教であると見做され

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  • Logic and Metaphysics - 金田一輝のWaby-Saby

    というわけで、新ブログのスペースを確保した。 「Logic and Metaphysics」 http://schuon.at.webry.info 基的には、フリッチョフ・シュオンならびにシュオン関連の論考の翻訳を載せるつもり。まとまったら、閲覧用として別のWebサイトにアップする予定。 私は、他人には(特にネットでしか知らない人には)、理知、論理、言語に偏していると見られがちだが、実際には物心ついた頃から神秘主義的傾向があった。大学生の時にマーク・ロスコの絵画を知って、「この光景、見たことある!」とびっくりしたほどだ。私がロジックにこだわるのは、ロジックがすべてだとか、ロジックを超えたものなどない、と考えているからではない。まったく逆だ。ロジックを超えたものに魅かれすぎるがゆえに、ロジックという拘束具で自らをしばる必要があった。そうでなければ、まともな日常生活を送ることができなかった

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  • モノテイズムの大逆襲――中田考『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ) 』★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    人ムスリム学者中田考先生によるイスラム。類書にない独自のポジションが目を引く。 西洋人(+日人)は、サイードの指摘するオリエンタリズムに基づき、「異文化」としてイスラームを理解してしまう。しかし、中田が主張するように、イスラームが、民族や文化を超えて伝播した歴史的事実は、イスラームには何らかの普遍性が存するということを意味する。中田が目指すのは、このイスラームの普遍性を、あらゆるノイズを排して、日語で日人に伝えることだ。 その場合ノイズとなるのは、まず日人の、部分的には西洋に影響を受けた認識論的枠組であるが、実は、イスラーム文化自体も、真のイスラームを隠蔽するヴェールとなっている。特に、西洋輸入の近代国民国家に基礎づけられた、現在のイスラーム国家においてそうである。 それゆえ、中田は、現代におけるイスラームとその日における認識論的前提を顕在化するとともに、イスラーム文化(国

    モノテイズムの大逆襲――中田考『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで (講談社選書メチエ) 』★★★ - 金田一輝のWaby-Saby
  • 中田考先生のホームページ - 金田一輝のWaby-Saby

    モノテイズムについて調べていて到達したが、キテますな。 http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/academicaim.html 学問の目標 (1)日の同胞に対して「ノイズをまじえずに唯一なる神の実在を伝える」こと (2)イスラーム世界に対して「現代の二大偶像神たるリヴァイアサン(権力≒近代国民国家 )とマモン(富≒不兌換紙幣)の支配の打破とカリフ制の再興の義務を説く」こと (3)人類全体に対して「国境を廃絶し、国民国家の鉄の檻から自由になることを訴える」ことです。 「カリフ制の再興」という所に特にぐっと来ますね。

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  • Anti-Nietzsche Introduction - 金田一輝のWaby-Saby

    昔からニーチェが嫌いだった。厳密に言えば「ニーチェが好き」とか言ってるやつらが嫌いだった。(笑 それは冗談としても、ニーチェのキリスト教(西洋形而上学)批判、腑に落ちたためしがない。もちろんこれは、私がキリスト教(特にカトリック)シンパだったから、ということはあるにはある。しかし、ごく客観的に言っても、ニーチェの哲学史理解はあさっての方に行っているのではないかという疑惑がある(ニーチェ好きの永井均もどこかで、ニーチェのカント理解はデタラメと言っていた記憶がある)。メタフィジックに対する救いようのない鈍感さを感じる。 さて、ニーチェの根思想に「永劫回帰」というものがある。その内容は、私の理解するところではこんな感じだろう。キリスト教(プラトンにはじまる西洋形而上学)は、この世の外に生の価値基準を設ける。そのことで、生を貶め、究極的には否定している。生を肯定するためには、生の価値を、「永遠に

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  • 知的神秘主義の世界への誘い――井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』★★★★★ - 金田一輝のWaby-Saby

    タイトルは「イスラーム哲学の原像」ではあるが、実際には十三世紀に勃興しはじめた、イスラーム神秘主義哲学(イスファーン)、しかもイブン・アラビーという一人の思想家に焦点を当て、その思想の内でも「存在一性論」に特化して論じている。とはいえ、広大なイスラム神秘思想への入門としては、最適な一冊であろう。 多分にもれずイスラーム思想史においても、いわゆる哲学と神秘主義は、まったく別の道をたどって発展してきたが、十二世紀から十三世紀にかけて統合されはじめる。その際に重要な役割を果たした二人の思想家が、スフラワルディー、もう一人が、イブン・アラビーである。 イスラームに限らず、一般に神秘主義は、経験世界を超えるために、経験的自我を、その理性的側面を含めて排除して、真実在と一致した神的我に到達する。いうまでもなくそれは理性を超えた境地であるから、そこにとどまる限り、哲学と接触する何物もない。実際、それを表

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  • 二十一世紀の新たな伝統――Frithjof Schuon"The Transcendent Unity of Religions" - 金田一輝のWaby-Saby

    イスラームに心が傾きはじめたことがきっかけで、この比較宗教学者フリッチョフ・シュオンの初期代表作にも手を伸ばした。完読していないので評価はつけない。 簡単に言えば、どの宗教も顕教的(エキゾテリックな)側面と密教的(エソテリックな)側面があり、前者において違いがあれど、後者においては一致している、全ての宗教は共通の聖なる源泉を持つ、という考え方が提示されている。こう要約すると、よくある話ではないかという気もするし、だいいち私はこの類の思想が嫌いだった。しかし、シュオンの著作は驚異的な博識と高邁な精神性を併せ持ち、そうした心理的障壁を破壊するに足る。 単純な二分法に陥っていないところもいい。それは'Concerning Forms in Art'の章によく現れている。宗教建築や宗教絵画は、感覚を超えたものを、それとは真逆にある感覚的なものを通して示す装置である。いわば、信仰の受肉である。それゆ

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  • 神学と数学の類似性 - 金田一輝のWaby-Saby

    「存在論日記」さんが「カトリックの擁護」記事に触れていることに気づいた。 http://sonzai.org/2007/11.htm 神学と数学との間には類似性があると私は考えている。 神学は、「神は存在する」という命題を含んでいる。それは反証可能性を持たない命題であり、したがって、神学は少なくとも自然科学ではない。しかし、だからと言って神学は学問ではないとまでは言えない。神学というのは数学と同様に、公理系から演繹された定理から構成される理論について研究する学問であって、そこでは公理の根拠というものは問われないのである。 神学の公理系というのは、「神は存在する」とか「神は万物を創造した」というような、神と被造物をめぐる命題から構成されている。キリスト教の神学の場合は、聖書が公理系であると考えることができる。 このように神学と数学との間に類似性があると考えているのは、私だけではないと思われる

    神学と数学の類似性 - 金田一輝のWaby-Saby
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