映画『カティンの森』(http://katyn-movie.com/pc/)を岩波ホール(http://www.iwanami-hall.com/)で観てきた。題名通り、カティンの森事件とそれを告発出来なかった時代とを告発した映画である。 時間帯や場所等を考慮に入れても、御年配の観客が妙に多いと感じた。冷戦時代に、ソ連への評価を決定的に左右する極めて重要な問題として、「やったのはどっちだ?」と調べ続けていた人達なのかもしれない。 映画の中では、ポーランド市民がソ連占領下・ドイツ占領下・独立後という三種類の地獄で延々と苦しみ続けていた。 一番悪いのは当然スターリンであり、またそれで済ませてしまう事は道徳問題としては一向に構わないのだが、この事件からはもっと多くの教訓を引き出せる。 まずポーランドを滅ぼす際に目先の利益のためにスターリンと組んでしまったヒトラーにも問題がある。後年ソ連はカティン
「虚無」を超えて 最近仏教に興味を持ち始めたという若い人に質問されました。 「仏教の無常とか無我とかいう教えを突き詰めると、確実な根拠を設定して発言することは錯覚にすぎない、ということになりませんか? すると、無常と無我という考え方自体も錯覚になりませんか? そうだとすれば、これはただのニヒリズムではありませんか?」 私の返答。 「無条件かつ絶対に確実な根拠に基づいて正しいと判断された物事や考え」、これを仮に「真理」とすれば、私が考える仏教の立場からすれば、その一切が完全に錯覚です。もし「無常」や「無我」も「真理」として主張されるなら、当然、錯覚にすぎません。「真理」の主張とは、実際には、発言者の依拠する立場と信念の正当性を、主張しているにすぎません。 ときどき、「仏教とは(宗教ではなく)科学である」というような、実に無意味な主張がされますが、仏教にも科学にも「真理」と考えられるべきいわれ
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