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仲正先生に関するprettycureのブックマーク (10)

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「進歩」は「回帰」であることへの「目覚め」 ■第5回■ ベンヤミンの影響を受けて、ブルジョワジーの太古回帰願望や文化産業についての研究を始めたアドルノは、こうしたベンヤミン的なオプティミズムには批判的です。アドルノは、そもそも大衆をそんなに信用しておらず、大衆芸術の解放のポテンシャルのようなものにあまり期待していません――それはアドルノの貴族趣味のせいだという人もいます。ですから、『複製技術時代の芸術作品』以降のベンヤミンの、大衆の自己覚醒能力に過度に期待しているかのような議論に、アドルノは批判的です。 ナチス時代には、ベンヤミンもアドルノもユダヤ系だったので、海外に亡命していました。しかし、同じ亡命者といっても両者の境遇は違いました。アドルノは、(組織全体として亡命していた)フランクフルト社会研究所の代表的なメンバーとして、海外でも研究所の機関誌の発行などをとおして、一定のアカデミックな

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「進歩」は「回帰」であることへの「目覚め」 ■第4回■ ● 「目覚め」のための論理 ナチスの時代にユダヤ人として生きたベンヤミンの言説には、政治的な部分もあります。芸術や美についてのニュートラルな分析をしているように見えて、じつはマルクス主義者・唯物論者として、ナチスに抵抗するポリティクスを試みていることもあります。抵抗しようとする場合、ある程度は、相手方であるナチス系の思想家と問題意識が共通してくる部分もあります。社会的に「美」として通用しているものをどのように解釈するか。“右”に都合よく解釈するか、“左”に都合よく解釈するか。そういうようなところで、左右の接点が生まれてきます。ベンヤミンが左寄りの解釈をしようとしていることがよくわかるのが、写真やレコード、ラジオ、そして映画など、「現実」を機械的に「複製=再生産」する技術を応用するかたちで生まれてきた新たな芸術と、その「可能性」について

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「進歩」は「回帰」であることへの「目覚め」 ■第2回■ ドイツ東部の小さな町イエーナを中心に活動した初期ロマン派のフリードリヒ・シュレーゲルやノヴァーリスらは、「自我=私」をめぐる反省的自己意識の“堂々めぐり”を、どうにかしてポジティヴな方向に展開しようと考えるようになりました。「自分とは何か」について自分で考えつづけた挙句、毎回、“まったく同じ結論”に帰着するようであれば、自分で自分にうんざりしてしまいます。だが、自分の頭の中でぐるぐる回転しつづけているうちに、自分自身の異なった側面、これまで「私」が気づかなかった、私の新たな側面を発見できるのであれば、“堂々めぐり”に見えるものも無駄ではないかもしれない。むしろ、非常に生産的な行為であるかもしれません。 むろん、当に自分の頭の中“だけ”で考えていると、埒は開かないでしょうが、そうした堂々めぐりを文章化し、さらには芸術作品化すれば話は違

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「進歩」は「回帰」であることへの「目覚め」 ■第1回■ フランクフルト学派の中心人物のひとりで、フランスのポスト構造主義思想や英米のカルチュラル・スタディーズにも影響を与えたことで知られるベンヤミンは、ドイツの裕福なユダヤ系の家庭に生まれました。もともと大学で文学研究者になることを志していました。しかし、彼の教授資格論文だった『ドイツ悲劇の根源』が哲学的に難解すぎて、審査員たちから認められませんでした。こうして正規のアカデミックなキャリアの道を断たれてしまった彼は、在野の文芸評論家として活動するようになりました。 マルクス主義の影響を受けた彼は、「唯物史観」の視点から、西欧的な「美学」を再構築することを目指していましたが、彼の「唯物史観」は、一般的にマルクス主義的な唯物史観と思われているものとはかなり違います。普通の「唯物史観」は、物質的な生産力の向上をとおして「歴史」が共産主義社会に向か

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「大きな正義」の落とし穴 ■「啓蒙する理性」によって顕在化する文明の野蛮性 さて、アドルノにしてみれば、ナチズムもマルクス主義も、「全体性」を志向する思想として同根の問題を抱えていました。若い頃の彼に影響を与えたマルティン・ハイデガーは、近代合理主義(形而上学)を抜け出して、生き生きとした自然(フュシス)や「存在」そのものに立ち返ることの重要性を説いたわけですが、そういった言説に対してアドルノは徹底した批判をあびせます。アドルノにいわせれば、ハイデガーのいう「存在そのもの」とは、ドイツ田舎にあるような、素朴で人間味のあるゲルマン的な共同体を支えている牧歌的な雰囲気です。ハイデガーはそういうところに、ドイツ人の根源や来的な「あり方=存在」があると思いこんでいたわけです。そうした近代を回避して、“自然”の近くに戻ろうとする願望や、存在それ自体の呼び声を聴くことができるような思いこみが、ナチ

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」 - アドルノの思想を読む3

    prettycure
    prettycure 2007/05/17
    ここまでくるともうフランクフルト学派第一世代はこけ始めてるんですよね、先生
  • 書籍出版 双風舎:【連載】仲正昌樹「思想の死相」 - アドルノの思想を読む2

    「大きな正義」の落とし穴 【第二回】 ■内面性(インテリア)の哲学 アドルノの教授資格論文は、セーレン・キルケゴールを論じたものでした。宗教哲学者で、神の前の「単独者」について語ったことで知られるキルケゴール。彼がその著書で描き出した、非常に「内面」的な世界は、室内(インテリア)という意味での「内面」に対応している、とアドルノは言います。普通に哲学的な意味で考えると、なぜインテリアが意識の「内面」なんだということになりますね。だって、室内の装飾やら家具やらは、確実に意識の外側にあるのですから。 しかし、ここで立ち止まって考えてみましょう。自分の意識とは、「内」と「外」との区別がつくものなのか。区別がつくなら、つけたのはいつなのか。自分の身体は、意識の「内側」にあるのか、あるいは「外側」から包んでいる容器のようなものなのか。 もうすこし一般化した例をあげてみます。自分の家の中を覗かれていたら

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「大きな正義」の落とし穴 【第一回】 戦後の(西)ドイツの思想界や西欧のネオ・マルクス主義理論に大きな影響を与えたデオドール・アドルノという人は、専門の社会哲学や社会学のみならず、文芸批評や作曲、そして音楽批評もおこなうなど多芸な人です。ユダヤ系なので、ナチスが政権を掌握したときに国外へ亡命し、しばらくのあいだはアメリカで研究生活を送っています。このとき研究成果である「権威主義的パーソナリティの研究」は、アドルノの思想にさほど関心のない政治心理学者などにもよく引用されます。 一九五〇年代の初頭に、先にドイツに戻っていた先輩で、一緒に『啓蒙の弁証法』を書いたマックス・ホルクハイマーの招きで、アドルノはフランクフルト大学に戻ります。そして、ふたりで「フランクフルト学派」の基礎を築きました。アドルノの主著は、弁証法的な思考における「否定」の意義をくわしく論じた『否定の弁証法』と、唯物論と前衛的な

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