義務というのは大体評判が悪い。 たとえばエレナ・ポーターの『少女パレアナ』(アニメ『ポリアンナ』の原作)のヒロインはひたすら義務を嫌い、聖書の中にも「喜びの句」を探し求める。一方、気難しい叔母のバレーは、パレアナを引き取ることを内心では快く思っていないにもかかわらず、それが自分の義務だと考えて、少女の養育を引き受ける。ところが、カントを読むと、たんなる義務感から自分の嫌なことをあえて引き受けるバレーのほうが実は「道徳的」だということがわかる。 たとえば義務と命令、強制とはどう違うのか。カントはむしろ、あえて命令とか強制という言葉を使っているようにみえる。われわれの多くが義務を嫌うのは、他者の意志や力によって否応なくそうせざるをえないように強いられる、という感覚がつきまとっているからだろう。われわれは普通、他者の意志や力に従属するとき、自由ではないと感じる。 しかし、たとえば子どもを養育す
以前ガンジーの自伝や著述を読んでいろいろ調べていたとき、印象的だったのは、ガンジーが妙に「食」の問題にこだわったり(ガンジーの母親はジャイナ教徒で、ガンジー自身も菜食主義者だった)、イギリス人がインドにもたらした鉄道・弁護士・医者を批判したりしていることで、当時の私はやや当惑を感じたことを覚えている。 先日、C・ダグラス・ラミス氏の『ガンジーの危険な平和憲法案』(集英社新書、2009年)を図書館で借りて読んだのだが、その中で啓発的だったのは、ガンジーが「コンスティテューション」という言葉をさまざまな文脈・用法で使っていたという指摘である。*1 ラミス氏は、ガンジーの文章を検討して、1.体質、2.組織の構成、3.イギリス憲法、4.神の意思、5.組織の会則、6.革命戦略、といった意味での用例を挙げ、そこから「社会のボディ(身体)としてのコンスティテューション」という発想・イメージをガンジーが持
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