久保田万太郎君の「しるこ」のことを書いているのを見、僕もまた「しるこ」のことを書いて見たい欲望を感じた。 震災以来の東京は梅園や松村以外には「しるこ」屋らしい「しるこ」屋は跡を絶ってしまった。その代わりにどこもカフェだらけである。僕等はもう廣小路の「常盤」にあの椀になみなみと盛った「おきな」を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少からぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にもやはり少からぬ損失である。 それも「常盤」の「しるこ」に匹敵するほどの珈琲を飲ませるカフェでもあれば、まだ僕等は仕合せであろう。が、こう云う珈琲を飲むことも現在ではちょっと不可能である。僕はその為にも「しるこ」屋のないことを情けないことの一つに数えざるを得ない。 「しるこ」は西洋料理や支那料理と一緒に東京の「しるこ」を第一としている。(あるいは「していた」と言はなければならぬ。) しかもまだ紅毛人たちは「し