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不破の関の検索結果1 - 3 件 / 3件

  • 司馬遼太郎をゆく【不破の関跡】壬申の乱@岐阜2022 - うめじろうのええじゃないか!

    こんばんわ、由緒正しきおっさんの休日のあり方、「司馬遼太郎をゆく」です(^^) 今回訪れたのは関ヶ原にある「不破の関」。 これは旧中山道でしょうか、非常に狭く曲がった道が古の雰囲気を醸し出しています。 この背中側には東海道新幹線が走り、深い山の中を切り裂くように跳んでゆく光景は感慨深いですね・・・。先日も出張の折り、スマホのグーグルマップを手にしながら「ここだ!」というポイントを見てやらんと窓外を凝視していたのですが、一瞬にして過ぎ去っておりました^^; 関ヶ原の関とは、いうまでもないことだが、不破の関のことである。 この関は、古代史のなかの関である。奈良朝以前から、畿内の天皇政権にとっての防衛上の関所で、美濃・近江の境界の美濃側に置かれていた。 この不破の関と、北陸道からの敵の乱入を遮断する越前愛発の関、さらには伊勢からの敵をふせぐ鈴鹿の関が、律令時代、天下三関といわれていた。 不破の関

      司馬遼太郎をゆく【不破の関跡】壬申の乱@岐阜2022 - うめじろうのええじゃないか!
    • 『岐阜県不破の関「垂井の泉」の聖武天皇御聖蹟』

      昨今の歴史家からは、「謎の迷走」などと批評される事の多い聖武天皇ですが、この聖武天皇による奈良→伊勢→美濃→紫香楽→恭仁京という行幸、及び遷都には大きな政治的、且つ祭事的意図があったと推察する。 当時、新興勢力であった藤原氏が台頭しつつある過渡期にあり、皇族出身の橘諸兄を側近として、曽祖父たる天武天皇の聖蹟を辿り、再び皇祖神の神威を高める為の祭事が道すがらに行われた事は、三重県四日市に遺る久留倍官衙遺跡からも明確に窺われる。

        『岐阜県不破の関「垂井の泉」の聖武天皇御聖蹟』
      • 夏の甲子園 優勝旗が「不破の関」を越えたのは、いつ?―天下分け目の関ケ原 | 岐阜新聞Web

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          夏の甲子園 優勝旗が「不破の関」を越えたのは、いつ?―天下分け目の関ケ原 | 岐阜新聞Web
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