中国に派遣され、お印にちなんで「若杉」という偽名で活動し、南京事件などの噂を聞いて軍紀の乱れを嘆いた。戦後はオリエント学者として活躍し、紀元節復活に反対し、戦時中の不適切行為についても大胆に発言した。 五人の子供に恵まれ、100歳まで長寿を誇ったが、2016年に亡くなった。 妃殿下の百合子さまは、高木家という河内国丹南藩一万石の末裔の子爵家の出身だ。あまり有名な殿様ではないが、南青山の高樹町の名前の由来となっている。もともと高木家の下屋敷があった場所で、黒船が来たときに島津家が海から遠い避難所として購入し、篤姫も江戸城への輿入れの前に住んでいた。 母の邦子は皇太后宮太夫だった入江為守子爵の娘で、弟は昭和天皇の侍従長だった入江相政。貞明皇太后が自分の側近の孫娘を末っ子の嫁にした。入江家は藤原定家の流れを汲む冷泉家の分家だ。 さらに遡ると、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言藤原長家を祖とする