1983年 衆院選兵庫1区に立候補、落選同選挙期間中、広島県大竹市の軍隊時代の上官宅を訪ね、応対に出た長男に拳銃を発砲し、負傷させる(殺人未遂罪等で懲役12年)
奥崎は東京拘置所から出所後、色々な知己、機縁を経て、処女作である「ヤマザキ、天皇を撃て」を出版した。内容は、何故に天皇をパチンコで狙撃したかを奥崎の生い立ちを含めて、裁判所に対して提出する陳述書をベースにしたものである。直木賞作家で国会議員の兄を持つ井出孫六氏が機関誌に奥崎に関するエッセイを掲載したことをきっかけに、出版されるはこびとなった。 出版に際しては、紆余曲折があった。当初、出版を予定していた出版社に対して児玉誉志夫から圧力が掛かり、一度発刊が頓挫した。 児玉は右翼運動家で、A級戦犯に指名されたが後に釈放された。後にロッキード事件の被告となる。ロッキード事件の概要を説明すると、日本のシェアを拡大したいロッキード社は児玉を秘密代理人にした。新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった児玉は、田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全
昭和四七年(一九七二)グアムのジャングルで未帰還兵、横井庄一が発見された。実に終戦から二八年が経過していた。帰国の際、横井の第一声は 「帰って参りました・・・恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」 というものだった。時折、アメリカ兵と出くわし交戦を繰り返すため、終戦など思いもよらず、ポツダム宣言を空からまかれた日本語新聞で知った時も、頭から「敵の謀略」と決め込み、「ポツダムとは、なんだろう」と話し合っていた。さらに横井達は、何度も投降勧告の放送を聞いている。 アメリカ軍の罠のような襲撃や見境ない銃撃に、次々と仲間を失っていく。横井は、いくら日本の流行歌などをマイクで唄われても、到底信じることはできなかった。発見されるという恐怖感で、二八年間一瞬たりとも熟睡したことがなく、独り言も自分に禁じたという。帰国後披露されたどの道具類もどの知恵も、「サバイバルの達人」と、人々をうならせる見事
id:vacant:20050626経由で知った。 あの奥崎謙三が死んだ。 馬鹿な男だった。俺とは思想的に正反対にいた男だった。 天皇ポルノビラばらまき事件、天皇陛下にパチンコ玉発射、元上官宅を訪問し長男を銃撃・・・。まさに極左行動派だった。彼の怒りは当初、左翼団体にいいように利用されていた。しかし狂気が進行するにつれ左翼から捨てられた。 最後には狂った妻と二人きりになった。「ゆきゆきて、神軍」のラストには一人きりで街宣車を走らせる妻の姿が映っている。妻は奥崎より先に逝った。奥崎は65歳にして最もよき理解者を失い、ついに一人きりになった。この事が奥崎の狂気を加速させたのだろうか?俺にはわからない。 「ゆきゆきて、神軍」の彼は敵ながらあっぱれというか敵にして不足なしと言った迫力があった。「田中角栄を殺す」と書いた街宣車を乗り回し、行く手を阻む警官に「捕まえてみろ!犬どもが!おうコラッ!」と圧
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