1枚の原稿を前に、沖縄タイムス入社3年目だった宮城鷹夫(32)=当時=はしばらく逡巡(しゅんじゅん)していた。 1955年9月4日朝。現場記者から届いたのは、6歳の少女が暴行され、殺害された沖縄戦後史に残る幼女暴行殺人事件(由美子ちゃん事件)の第一報だった。宮城は夕刊デスク。情報を集め、記事に仕立てる役割だった。 発見されたのは、嘉手納村(現嘉手納町)の米軍基地内のちり捨て場近く。「約1キロ離れた場所に、英語で名前を記入したシャツが見つかった」。米軍関係者の犯行をうかがわせる詳細で具体的な内容も上がってきた。 宮城のためらいは、ここにあった。〈米軍関係者の犯行だった場合、記事の表現をどこまで受け入れるだろうか〉と考えていたのだ。 宮城は、米軍統治下だった68年前を振り返る。「米軍が絶対権力を持っていた。米軍関係者の犯罪を細かく書くこと自体が抵抗とみなされた」 前年の54年には沖縄人民党委員