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徳岡神泉 作品の検索結果1 - 9 件 / 9件

  • 来年の自分の物語を組立ながら選ぶ『国立美術館オリジナルカレンダー』 - 日毎に敵と懶惰に戦う

    国立美術館が持つ、豊富なコレクションの所蔵作品から、12点の作品を選んで自分だけのカレンダーを作ることができるサービス『国立美術館オリジナルカレンダー』 壁掛けタイプか卓上タイプを選び、掲載する作品を140点から12点選び(壁掛けタイプは2ヶ月ごとに6点選ぶタイプもあり)、何月に何を入れるかの配置を考えて、注文。PCからでもスマホからでも、、わかりやすいUIでさくさく選択できます。スマホで月ごとの配置を選ぶ画面は、こんな感じ お値段は、2,300円~2,900円とちょっとお高めですが、しっかりした作りのカレンダーが出来上がります。カレンダーの製作現場はこんな感じ(これは2年前のオルセー美術館展のグッズ製作のようすですが、カレンダーは同様に作られています) 「オルセー美術館展」公式オンデマンドグッズ工場潜入レポート! | 弐代目・青い日記帳 去年頼んだ卓上カレンダーも、1年間、しっかり愛用し

      来年の自分の物語を組立ながら選ぶ『国立美術館オリジナルカレンダー』 - 日毎に敵と懶惰に戦う
    • 必見の展覧会、京都国立博物館『海北友松』と、大阪市立美術館『木×仏像』 - 日毎に敵と懶惰に戦う

      京都のカプセルホテルでおはようございます。 7時過ぎに出発。京都国立博物館は9時半からなので、それまでぶらぶらお散歩しましょう。まずは清水寺を目指したけれど、清水寺自体はこのあいだ行ったばかりだし 三寧坂に人がいないな、と、そちらに歩き出す 昼間は人でごったかえして、最近はあまり散歩もしたくないようなところだけれど、朝はとにかく人がいなくて素晴らしい。これなら散策したくなる 途中、前田珈琲の高台寺店であさごはん さらに、高台寺あたりをぶらぶらしていた お散歩は朝に限りますな。8時をまわると、ぼちぼち人が出てきて、8時半くらいには清水寺に向かう修学旅行生も こちらは人を避けて、大谷本廟の墓地のほうから山を下りて 京都国立博物館へ。9時半開館なのに9時に着いてしまい、どうしよう…と思っていたら、なんと、この時点で数十人並んでいる 9時15分に門が開いて、平成知新館の前に並んだわけですが 9時半

        必見の展覧会、京都国立博物館『海北友松』と、大阪市立美術館『木×仏像』 - 日毎に敵と懶惰に戦う
      • 奥村土牛 - Wikipedia

        奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日[1] - 1990年〈平成2年〉9月25日[2])は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)[3]。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた[3]。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている[4]。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。このことは美術工芸品の相続税制の問題を世に問うことになった

          奥村土牛 - Wikipedia
        • 竹内栖鳳 - Wikipedia

          栖鳳筆 アレ夕立に 絹本着色 第3回文展 高島屋史料館 1909年 竹内 栖鳳(たけうち せいほう、元治元年11月22日〈1864年12月20日〉- 昭和17年〈1942年〉8月23日)は、戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は竹内 恒吉(たけうち つねきち)。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある[1]。 画歴[編集] 京都府京都市中京区御池通油小路の川魚料理屋「亀政」の一人息子[2]。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、1881年(明治14年)の17歳の時に同派の名手として知られた円山・四条派の幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようにな

            竹内栖鳳 - Wikipedia
          • 井上雄彦、びょうぶ絵「親鸞」を描く。:哲学ニュースnwk

            2011年03月27日18:47 井上雄彦、びょうぶ絵「親鸞」を描く。 Tweet 1:名無しさん@涙目です。(滋賀県):2011/03/26(土) 23:03:01.11 ID:Mtc1r4RL0 「スラムダンク」井上さんが親鸞のびょうぶ絵 「スラムダンク」や「バガボンド」で知られる漫画家の井上雄彦さんが、 びょうぶ絵「親鸞」を描き26日、真宗大谷派本山・東本願寺(京都市下京区)で 報道陣に公開した。親鸞の750回遠忌を記念した事業の一環で同派が依頼した。 作品は六曲一双の大作で、それぞれ高さ約2・1メートル、幅約5・8メートル。 右隻には、苦悶や怒りの表情を浮かべ、泥の川を歩むような民衆とともに生きる姿、 左隻にはほっとしたような表情で鳥を見つめる姿が墨で描かれている。 同派は東日本大震災の被災地支援のため、 今春にびょうぶ絵のポスターなどを制作し、収益金を寄付する。 4月4~17日

            • D' s Basement supplement

              2023年12月24日17:27 カテゴリ博物館 2023年遠征とお座敷と 遠征はあまりフィールド絡みでは行けていない1年だった でも博物館はそれなりに行った。 自腹○ 呼ばれた、または仕事のついで△ 2月 全科協 浜松市科学館、浜松楽器博物館△ 3月 ふじのくに地球環境史ミュージアム(2回目)△ 徳島県立博物館△ 科博△ 京都教育大学資料館 教育の森○ 4月 松下幸之助記念館 パナソニックミュージアム○ 6月 カリフォルニアに行けず、宮古も台風で飛んだ あべのハルカス美術館○ ひらパーめっちゃ昆虫展○ LiCaHOUSe、池子の森△ 横須賀ヴェルニー記念館△ 上野の森美術館△ 7月  箕面昆虫館△ ふるさとミュージアム丹後○ 竹中大工道具館○ 8月  NTT-ICC△ 角川ミュージアム△ 東京都現代美術館△ 9月  ベルナール・ビュフェ美術館△ 滋賀県平和祈念館△ (まちライブラリー北勝

                D' s Basement supplement
              • 自転車帯広の旅 帯広美術館と、愛国から幸福へ - 日毎に敵と懶惰に戦う

                ユースホステルで6時に目が覚める。今日も天気が良さそう。朝飯までの間、少し周囲を散歩してみる ここ音更町は帯広の北にある町で、帯広にも近い。ですが、大きな町が近くにあるのかな、というような風情の場所なのでした 小一時間周囲をぶらぶらして、宿に戻ると、今日のマラソンに参加するご夫婦がもう出かける支度の最中だった さて、あさごはん。これは、あさごはんも立派だ! さらに食後には、同宿の人からのおすそ分けで美味しいバナナケーキが廻ってきた。今回、北海道に来ているのに、バナナのアイスクリーム、バナナのチーズケーキ、さらにバナナのパウンドケーキと、バナナづいている これも美味しくいただきました。お宿自体も、人も、とても雰囲気の良いところだった。今回は2泊ともあたりだったなー 8時半過ぎに出発。広大な十勝川を渡り 帯広駅方面に向かう。そして、帯広と言えば…の、六花亭へ 以前、帯広に来た際には、駅の近くの

                  自転車帯広の旅 帯広美術館と、愛国から幸福へ - 日毎に敵と懶惰に戦う
                • 6月9日 - Wikipedia

                  6月9日(ろくがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から160日目(閏年では161日目)にあたり、年末まであと205日ある。 できごと[編集] ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの壁画『マエスタ(英語版)』公開(1310) ウィーン議定書締結(1815)。ウィーン体制(画像)はじまる。 チャールズ・キングスフォード・スミス、アメリカからオーストラリアまでの太平洋横断飛行に成功(1928) 第三次中東戦争、イスラエルがゴラン高原を占拠(1964) 53年 - 後にローマ皇帝となるネロがオクタウィアと結婚[1]。 62年 - ローマ皇帝ネロの最初の妻だったオクタウィアが処刑される[2]。 68年 - ローマ皇帝ネロが自殺する[3]。 1281年(弘安4年5月21日) - 元寇: 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。弘安の役の始まり。 1312年 - シエナ大聖堂で、ルネサンス初期を代表する絵画であるド

                  • 木島櫻谷 - Wikipedia

                    木島 櫻谷(このしま おうこく[1]、正字体:櫻谷[1]、桜谷とも。明治10年(1877年)3月6日 - 昭和13年(1938年)11月3日)は、明治から昭和初期にかけて活動した、四条派の日本画家。本名は木島文治郎。字は文質。別号に龍池草堂主人、聾廬迂人。 四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 京都市三条室町東入御倉町で、木島周吉(二代)の子として、一女三男兄弟の次男として生まれる[2]。曽祖父の木島元常は、狩野派の絵師・吉田元陳の弟子で、京都在住絵師の多くが参加した寛政期の内裏造営障壁画制作にも名を連ねている[3]。祖父・周吉の代から内裏に高級調度を納入する「有識舎」という店を興し、父もその店を継いでいた。父は絵や和歌、茶の湯に造詣が深く、木島家には彼を慕った芸術家や知識人の来訪が絶えなかったと

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