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  • トーマス・ロックリーの著作について - 三分の一

    はじめに 「信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍」及び「African Odysseys:AFRICA, INDIA AND BEYOND IN THE EARLY MODERN WORLD」 「黒人奴隷」は流行したのか 「誤読」の拡散 ロックリーの主張の検証 「黒人奴隷」はどのように日本に到達したのか 「マニラ経由による黒人奴隷の輸入」という誤謬 ロックリーの主張 総評 『信長と弥助』について SNS上で見られるロックリー批判について 参考文献 はじめに 本稿ではトーマス・ロックリーの著作およびTwitter上で見られる批判について記述する。 ロックリーへの中傷が拡大した経緯については以下のブログが詳しい。 nou-yunyun.hatenablog.com 上記のブログでは、たとえ「中心となる言説が伝言ゲームから変容した単純なデマ」であっても、目にした人間がそれを内面化したまま「不信感

      トーマス・ロックリーの著作について - 三分の一
    • 「彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」北条氏も恐れた、常陸国・佐竹義重が果たした責務

      「眼中の光凄まじく、夜叉羅刹とも云うべし」──鬼神にもたとえられる佐竹義重だが、その人生はまさに戦いの連続だった。関東制覇を目論む北条と幾度も戦い、奥州で急成長する伊達とも干戈を交える。そして、豊臣から徳川へ天下が移る激動の中を生き抜いた──。 ※本稿は、『歴史街道』2019年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。 「坂東太郎」の異名をとる 佐竹義重は天文16年(1547)、常陸半国の守護・佐竹義昭の長男として舞鶴城で誕生した。幼名は徳寿丸。佐竹氏は新羅三郎義光の流れを引く清和源氏で、一族が佐竹姓を名乗るようになってから義重は19代目にあたる。 永禄5年(1562)、義昭が隠居し、義重は16歳で家督を継いだ。初陣は永禄7年(1564)、義昭や上杉謙信とともに小田氏治を攻めた山王堂の戦いで、見事勝利し、小田城も陥落させている。 永禄12年(1569)1月、義重は小田氏治の海老ヶ島城を

        「彼奴は人ではなし。鬼じゃ!」北条氏も恐れた、常陸国・佐竹義重が果たした責務
      • 伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔

        殺戮をものともしない梟雄。謀略を巡らす、陰険な「羽州の狐」。悪逆なイメージでばかり語られてきたが、それは、実像とは異なるものである。本当はどのような人物だったのか──。 ※本稿は、『歴史街道』2019年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。 ずる賢くて、残忍な人物!? 戦国大名・最上義光(1546〜1614年)はこれまで、ともすれば等閑に付されてきた。義光の名が「よしあき」と読むこともさほど知られてはいない。 それだけならばまだしも、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』では伊達政宗の敵役として描かれた影響もあって、ずる賢く、残忍な人物のように評価されてきた。 しかしながら、それは決して妥当ではない。実際の義光は、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続ら戦国時代の他の武将たちと同様に、勇気と知恵を使って戦い抜き、山形藩初代藩主として57万石(実高100万石)の大藩を運営した名将であった。 そのうえ

          伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
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