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検疫の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 赤い靴はいてた女の子はアメリカに行ったのか? - そこはかとなく

    久しぶりに横浜に来たので、山下公園の'赤い靴はいてた女の子'像のモデルについて。 この像は、ご存知のとおり'赤い靴'の歌の女の子を表す。 通説によれば、赤い靴はいてた女の子像にはモデルがいる。 名前はきみちゃん。時は明治時代。お母さんの岩崎かよさんと母一人子一人だったが、かよさんが結婚することに。お相手は、社会主義思想に染まり北海道を開拓しユートピアを作ろうとした男性。 当時、北海道での生活は厳しかったため、夫妻は幼女のきみちゃんを宣教師夫妻に預けることに。養子に出したということか。預ける条件は、宣教師が母国アメリカに帰国する時、きみちゃんを連れて帰ること。 帰国はすぐにやってきた。 横浜から船で渡米するため、検疫を受けた。結果は、きみちゃんだけが結核。渡米できない。 きみちゃんは麻布の教会に預けられ療養していたが、薬のない時代ゆえ数年で亡くなる。 そんなこととは知らないかよさん夫妻のとこ

      赤い靴はいてた女の子はアメリカに行ったのか? - そこはかとなく
    • Finnair AY73便 ヘルシンキ→成田 北極ルート プレミアムエコノミー搭乗記 - へんな旅行記

      はじめてのFinnairです。 Finnairの日本便 Finnairの長距離機材 イタリアからフィンランド行きに搭乗 エンブラエルで乗り継ぎ先のフィンランドまで ヘルシンキ乗り継ぎお買い物 ヘルシンキ乗り継ぎでFinnairラウンジ 遅れのご連絡 遅れて搭乗口へ いよいよ機内へ 北日がまぶしいヘルシンキを離陸 一回目の機内食 北極ルートを満喫 北極から太平洋へ南下 二回目の機内食 成田へ向けて降下 いよいよ成田到着 Finnairの日本便 コロナ前には日本にめっちゃ飛んでいたFinnairです。 というのも、Finnairの本拠地ヘルシンキは、ロシアのすぐお隣。日本から直線距離でヨーロッパに向かうのであれば、一番近い都市です。 正距方位図法を載せればわかりやすいんですが、いい地図がないので... ということで、日本からヘルシンキを経由してヨーロッパ各地へ向かう需要を拾って大盛況でした。

        Finnair AY73便 ヘルシンキ→成田 北極ルート プレミアムエコノミー搭乗記 - へんな旅行記
      • フィリピン留学ホームステイ | APSEフィリピン留学

        投稿日:2024年7月8日/更新日:2024年7月7日 勉強だけじゃない!留学で持ち帰りたいフィリピン土産まとめ 留学は勉強のためと思いつつ、海外旅行のように楽しみたいという人も多いのではないでしょうか。現地に滞在中は勉強ばかりですが、帰国後にゆっくりとお土産を味わったり、思い出に浸るのも留学の楽しみです。 しかし、意外と知らないフィリピンのお土産!フィリピン留学をして、日本にいる家族や友人へお土産を購入してみてはどうでしょうか。 この記事では、フィリピンでおすすめのお土産をご紹介します! 留学ではお土産も楽しみ 留学は英語の勉強をして、海外の文化を知れるのも経験と言えるでしょう。本来、留学は勉強目的ですが、家族へのお土産は購入したいという人も多いはず。特に短期留学では、勉強ばかり!で、あまりフィリピンを楽しめなかったという人もいます。そんな人も、帰国後にお土産を見ると、思い出すことが多々

          フィリピン留学ホームステイ | APSEフィリピン留学
        • みんゆうNet

          大正4年、英世が帰郷した時、北会津郡役所前で撮った医師会との記念写真。前列中央が英世、3列目左から4人目が山内ヨネ 山内ヨネは会津(若松)で開業した最初の女医といわれている人だが、野口清作(後の英世)の初恋の女性として知られている。 ヨネは医師であった山内立真の1人娘として、明治15年、若松に生まれた。立真は日本医学界の泰斗・佐藤尚中の門人で、ヨネが7歳の時に亡くなった。母の千代はヨネを医師にして山内家を再興させたいと願っていた。母は、若松に設立されたばかりの私立女学校にヨネを通わせていた。ヨネは、医師になることは自分の天命であると考え、その目標に向かって勉学していた。 漢文、外国語の手紙届く そんなある時、ヨネの家に差出人の名前がない1通の手紙が投げ込まれた。ヨネは心当たりがないので、母とも相談して女学校の先生に届け出た。その後も、難しい漢文の手紙のほかに外国語で書いた手紙も届いた。 ヨ

          • 感染症と栄一 ~東京都~|わがまちの渋沢栄一|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団

            渋沢栄一の生きた明治・大正の時代、コレラや結核、ペストやスペイン風邪といった感染症が繰り返し猛威を振るい、人びとを苦しめました。栄一の妻、千代も1882(明治15)年に流行したコレラによって、42歳の若さで急逝しています。今回は、栄一が目に見えない病原体の脅威にどのように臨んでいたのか、その事績が現在にどうつながっているのか、コレラと結核に関する事業を例に紹介いたします。 東京地方衛生会 1879(明治12)年、日本全土でコレラが流行しました。医学博士北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう、1853-1931)の調査報告によると、罹患者の6割以上が死亡する当時最大の流行でした。 内務省はこの年、衛生行政として中央衛生会を設置。各府県にも地方衛生会が設立されることになり、日本橋区蠣殻町(現・東京都中央区)に東京地方衛生会が開設されました。栄一は同会委員、幹事に就任し、予防費を寄付するなど尽力して

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