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舟越保武 ダミアン神父の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 慰安婦少女像のどこが「表現の不自由」なのか 呉智英氏疑問

    あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止騒動は、なかなか収束の気配を見せない。評論家の呉智英氏が、表現の自由・不自由とは本来、どういったものなのか、事例をあげながら解説する。 * * * 八月一日から始まったあいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展」騒動が今も続いている。議論の中心にあるのは慰安婦を象徴する「少女像」だが、これ、いつ表現が不自由になったのか。 少女像はソウルの日本大使館前に二〇一一年から堂々と設置されている。しかも公道にである。これ以外にも韓国各地に、さらにアメリカやドイツにもいくつか設置されている。日本でも、公道や公有地は当然駄目だが、韓国大使館の玄関や会議室なら設置は自由である。個人の家でも全く自由だ。二〇一二年に東京都美術館で開催された国際交流展だけが、特定の政治思想に関連するとして、これを撤去した。国際交流の本義にも反するはずだ。要するに、趣

      慰安婦少女像のどこが「表現の不自由」なのか 呉智英氏疑問
    • ダミアン神父 - Wikipedia

      ダミアン神父の生家 ダミアン神父(ダミアンしんぷ、英: Father Damien、1840年1月3日 - 1889年4月15日)は、ベルギー出身の宣教師である。ダミアンは修道名であり、本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)。ハワイ王国のモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げ、自らもハンセン病で命を落とした。カトリック教会の聖人で、記念日は5月10日である。 生涯[編集] 1840年1月3日、ベルギー、ブラバント州のトレムロー(現在はフラームス=ブラバント州)の農家で7人兄弟の末っ子として生まれ、幼児洗礼を受けてヨゼフと名付けられた。修道院に入っていた兄や姉の影響を受けて、自らも1859年にイエズス・マリアの聖心会に入会し、司祭として神と人々に自らの一生を捧げることを誓った。このとき選んだ修道名が「ダミアン」であり、「コスマ

        ダミアン神父 - Wikipedia
      • 慰安婦少女像のどこが「表現の不自由」なのか 呉智英氏疑問

        あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止騒動は、なかなか収束の気配を見せない。評論家の呉智英氏が、表現の自由・不自由とは本来、どういったものなのか、事例をあげながら解説する。 * * * 八月一日から始まったあいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展」騒動が今も続いている。議論の中心にあるのは慰安婦を象徴する「少女像」だが、これ、いつ表現が不自由になったのか。 少女像はソウルの日本大使館前に二〇一一年から堂々と設置されている。しかも公道にである。これ以外にも韓国各地に、さらにアメリカやドイツにもいくつか設置されている。日本でも、公道や公有地は当然駄目だが、韓国大使館の玄関や会議室なら設置は自由である。個人の家でも全く自由だ。二〇一二年に東京都美術館で開催された国際交流展だけが、特定の政治思想に関連するとして、これを撤去した。国際交流の本義にも反するはずだ。要するに、趣

          慰安婦少女像のどこが「表現の不自由」なのか 呉智英氏疑問
        • 二十六聖人記念碑の制作者・舟越保武彫刻展開催-練馬区立美術館 - NEWSALT(ニュースソルト)

          二十六聖人記念碑の制作者・舟越保武彫刻展開催-練馬区立美術館 — 2015年8月12日 7月12日より練馬区立美術館で、二十六聖人記念碑の制作者として知られる舟越保武の彫刻展「舟越保武彫刻展―まなざしの向こうに」を開催している。代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示している。開催は9月6日まで。 舟越保武(1912~2002年)は佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家であり、二十六聖人記念碑の「長崎26殉教者記念像」、島原の乱を題材にした「原の城」、ダミアン神父をモデルにした「病醜のダミアン」などの代表作を持つ。 舟越は1950年、長男が生後すぐに急死したのを機に洗礼を受け、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした作品を多く発表した。「原の城」は72年にローマ法王庁に贈られ、翌年ローマ法王から「大聖グレゴリオ騎士団長」の勲章が授与されている。東京芸術大学(

            二十六聖人記念碑の制作者・舟越保武彫刻展開催-練馬区立美術館 - NEWSALT(ニュースソルト)
          • 舟越保武 - Wikipedia

            舟越保武 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ[1]、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた[2]。 画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。娘の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者[3]。 生涯[編集] 1912年、岩手県二戸郡一戸町[1]小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった[4]。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中[1]、(同期に松本俊介[1])に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す[4]。 1939年、東京美術学校(後の東

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