山海関事件 「神戸大学新聞記事文庫」外交122-3 前回の「歴史ノート」で、一九三二年十二月八日の国際連盟総会における松岡洋右の演説とその直後の支那の動きを書いたのだが、一九三三年の正月早々に万里の長城の東端の山海関さんかいかんにある日本憲兵分遣所等に何者かが手榴弾を投じさらに小銃射撃を行った事件が起きた。さらに翌二日には日本軍守備隊が南門で中国軍から突如射撃されたために児玉中尉が戦死し、数人の負傷者が出ている。支那駐屯軍司令官の中村中尉は、同日に張学良に対し警告文を手交し、陸軍は三日にこの事件を国内に発表したのだが、四日の大阪朝日新聞はこの事件の背景について陸軍が次のように発表したことを伝えている。 目下張学良が盛んに兵を熱河ねっか省及び山海関附近に進め反満抗日の行動に出でつつあるの状況にかんがみ、支那側官憲が日本の国際的地位を不良ならしめんがため行った計画的挑戦であることが明瞭である。