1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した[2]。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。1928年(昭和3年)に再選され、戦前・戦後を合わせて通算12回当選した。 1932年(昭和7年)、政界を離れて 時事新報社重役に就任、芦田均、津田信吾、石山賢吉らと親交を持った[2]。1932年(昭和7年)、武藤が社長を務めていた「南米拓殖会社」に取締役として入社、ブラジル・アマゾン開拓事業に従事した。1934