(1)最も悲惨な「地獄だった」インパール…から続く 「そりゃ、ひどうおました。命は一つしかないのに、ひたすら突撃だけやった」。祭(まつり)兵団の歩兵60連隊機関銃中隊員としてインパール作戦に臨んだ西川慶三(93)=京都市北区。胸中に、あの戦闘の凄惨(せいさん)さは「行った者にしか分からない」という思いがあり、だからこそ「なんぼ説明しても分からへんやろうし、想像できひんやろう」と口を閉ざしがちだった。 天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)までにインパールを攻略せよとの命令を受け、西川らもアラカン山系に踏み入った。山を越えても、また次の山が立ちはだかる。馬の背に武器を積んだが、険しすぎて馬が上がれない。結局、人間が荷を担いで山を越えた。 行軍中、敵はすぐに退散し、順調かと思えた。だが、それはインパールに日本軍をおびき寄せる作戦だった。眼下にようやくインパールの街の灯が見えたころ、圧倒的な敵軍