チェルフィッチュの演劇作家(あと小説家)のブログ。あと一ステージで「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の東京公演も終わります。 打ち上げは普通にモツ鍋屋さんの予定。 それはそうと。 下記エントリにも書いたシンポジウムの映像ちょっと見て(全部は見てない)思ったこと。 演劇の本質とか力とか意義とか、それが開かれているかとか、について、外部に対して(内部に対してではなくて!)説得力のある言葉なり実践なりで、誰かが示したり証明したりしないといけないわけで。でも、「誰か」なんて悠長なことは、もうあんまり言ってられなくて、もうこれは、作り手自身がとりあえずそれを自分なりの仕方でできないといけない。 わたしたち作り手はもう、それを誰か他の人(作り手でない人)に頼っちゃだめだと思う。 なぜなら、頼れる現状があればまだしも、ないわけだからそれは。 (なんだか九条反対と同じロジックの
きのう見たサミット参加企画「東京寄席スタイル」は僕的にはものすごくおもしろかったのだけどそれはなぜなのか? いわゆる普通の芝居には食傷気味とか、そんな理由ではないはず。 あれは「企画」なのか? 「作品」ではないのか? あれを一つの「作品」であるって言ってしまいたい。 なんとなく、僕が僕自身の形式から自由になるためのほのかなヒントみたいなものは得た気がする。 気のせいかもしれないが。 今もいろいろ取りかかってるけど、最大の懸案は、「友達」の演出どうしよう。。。ということで、十月の稽古始めの前に、いろいろ考えているところ。今のところ考えたのは、最後にレベッカの「フレンズ」でもかけてとりあえず盛り上げるか、ということです。もちろん嘘です。
チェルフィッチュの演劇作家(にして小説家)岡田利規のブログです。標記公演、無事に終わりました。お客さま、ありがとうございました。 「観客の想像力を信じる」という賭けに僕たちは勝ったのじゃないだろうかと、今、感じることができているのが、とても嬉しい。伝達に完全に失敗するかもしれないと、実際に上演してみる前は、かなり不安だった。 ところで、いろいろあって、この作品のタイトルを変える必要がある。それについて、今後詳しくブログで書くことに、あるいはなるかもしれない。 いいタイトルを思いつきたい。「わたしたちは無傷な別人であるのか?」というのは、直接的すぎると思う。もっとどうでもいいタイトルにしたい。でも、この直接的なタイトルは、そこに向かって創作を推進していく目印のようなものとして、僕には必要だった。 けれど作ってしまった今となっては、もうそれは交換されてもいいし、交換されたほうが、たぶん
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