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平成十四年(2002)九月十七日、小泉純一郎首相が北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記と平壌(ピョンヤン)にて会談を行った。日本の首相が史上初めて北朝鮮に乗り込んだ歴史的会談である。 「拉致した人を返してほしい」 「それより植民地時代の謝罪と補償を」 「ところで、不審船って、何してたの?」 そんな話をしたかどうかは分からないが、大筋で合意したようで、日朝共同宣言(日朝共同声明)がなされた。 衝撃的な事実も伝えられた。 拉致されていた日本人のうち、八人がすでに死亡しているという。一部生存説もあるが、今の段階ではなんともいえない。 すべては戦争から生まれた悲劇である。 南北のいがみ合いがなければ、北朝鮮が軍国に走ることはなかったであろう。日本が朝鮮を植民地にしていなければ、日本人が恨まれることはなかったであろう。戦時には、常識は通用しない。朝鮮はまだ戦後ではない。一刻も早く南北が統一して戦
こうして光仁天皇は即位したが、すぐに皇后は定められなかった。 その訳は、藤原良継(よしつぐ)・百川(ももかわ)ら式家と、藤原永手(ながて)ら北家の思惑が異なっていたからにほかならない。 良継・百川ら式家が光仁天皇を推したのには、理由があった。 実は百川は、光仁天皇の次男・山部親王と仲が良かったのである。 百川は確信していた。 「山部親王こそ、天皇にふさわしい器だ」 それにはまず、その父・光仁天皇を天皇にしておく必要があった。 そしてもう一つ、その生母・和新笠(やまとのにいかさ)を皇后にしておく必要もあった。 一方、永手ら北家が光仁天皇擁立に賛成したのにも理由があった。 実は最近、永手は娘・曹司(そうし)を光仁天皇に嫁がせていたのである。 つまり、曹司に子が生まれれば、自分は天皇の外戚(がいせき)として実権を握ることができる。 それにはまず、その夫・光仁天皇を天皇にしておく必要があった。 そ
月日は流れた。 井上内親王は、天平勝宝六年(754)頃に酒人女王(さかひとじょおう)を生み、天平宝字五年(761)頃に他戸王(おさべおう)を生んだ(他戸の生年については、751年説などもある)。 逝く人々もいた。 天平感宝八年(756)に父・聖武天皇は崩御、天平宝字六年(762)には、母・県犬養広刀自も死んだ。 妹婿・塩焼王は、恵美押勝の乱に加担してぶっ殺された。 神護景雲四年(770)八月四日、異母妹・称徳天皇も崩じた。享年五十三。 異母妹の死には、悲しみはなかった。 「あの人は好きに生きてきたんだから、満足でしょう」 称徳天皇と道鏡の関係は、姉も知っていたことであろう。そして二人にまつわる数々のエロ話も、耳に入ったことであろう。これらの話はおもしろすぎるので、いずれまたの機会に紹介したい(「女帝味」「奈良味」参照)。 問題があった。 誰が次の天皇になるかである。 称徳天皇には子がなかっ
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