「民党の連中を絶対に当選させるな」 中央からの指令を受けた各知事・警部長らは、各郡長・警察署長らを集めて作戦を会議、右翼・暴力団・チンピラ・不良、その他無頼のやからを募ると、木刀・日本刀などの武器を配布、吏党候補者とともに徒党を組ませて選挙運動をさせた。 「なんて物騒な選挙運動だ」 「まるで暴走族か軍隊の行進じゃないか」 徒党の連中は、大人を見かけると選挙権の有無を問い、 「今度の選挙は吏党に投票してください!」 と、お願い、 「絶対投票するんだぞ!」 「民党に入れたら、ぶっ殺すぞ!」 などと強制・恐喝する一方で、金品も配った。 「えへへ。これ、知事からの贈り物です」 「つまらないものですけど、吏党をお願いします」 「もっと欲しかったら、吏党の選挙事務所へお気軽にどうぞ」 そして、民党の候補者を見かけたら、襲撃である。 「あっ! 自由党のヤツらだ!」 「改進党のヤツらだ!」 「それっ! 痛
松方正義は薩摩鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の生まれである。 同郷の同志大久保利通の後を受けて殖産興業政策を進め、大蔵卿(おおくらきょう。今の財務相)・蔵相(大蔵卿の後身)に就任、紙幣整理を行い、日本銀行を創設するなど、いわゆる松方財政を主導したことで知られている。 その松方が蔵相を兼ねたまま、明治二十四年(1891)五月六日に首相に就任した。 薩摩出身の首相は、黒田清隆について二人目だが、長州の両ボス・山県有朋と伊藤博文が、いちいち助言やクレームを付けたため「黒幕内閣」と呼ばれた。 十一月二十六日、第二議会が始まった。 第二議会における政党別の勢力分布は右の通りである。 御覧のように、今度も民党が過半数を占めていたわけだ。 政府はまたも前年度比六百五十万円増の軍拡予算案を提出したが、衆院予算委員長・松田正久(まつだまさひさ)はこれを一蹴(いっしゅう)、軍艦建造費・製鋼所設立費など八百万円減の
十二月、首相が施政方針演説を行った。 時の首相は長州軍閥(ぐんばつ)のドン・山県有朋。 幕末には高杉晋作(「攘夷味」参照)の下、奇兵隊を率いて各所を転戦、維新後は大村益次郎の後を受けて日本陸軍の基礎を築いた生粋の将軍である。 山県には、山県の描く大日本帝国の未来像があった。 「大日本帝国は、欧米列強に負けない東洋一の軍事大国になるべきである。もしなれなければ、帝国は清国やインドの轍(てつ)を踏むことになるであろう」 演説の中で山県は、列強(特にロシア)の脅威に対するために利益線(朝鮮を指す)の確保を主張、その分軍費を上乗せした一般会計歳出額八千三百三十二万円という軍拡予算案を提出した。 が、時の衆院予算委員長・大江卓(おおえたく。立憲自由党)は「民力休養(減税)・政費節減(予算削減)」を掲げる民党同志の意見を尊重、軍艦建造費など八百万円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させ
小松原は困った。桂太郎に相談した。 「総理。お願いしますよ。ここはもう、総理の『ニコポン主義』に頼るしかありません」 が、桂は渋った。 「『ニコポン主義』は私は必殺技だ。安売りするものではないし、早々と繰り出すものでもない」 「お願いしますよ~」 「まだ一度失敗しただけではないか。何度も何度もしつこく説得すれば、さすがの藤沢も折れるであろう」 小松原はがんばった。 藤沢の顔を見るたびに頭を下げてすがりついて額づいて必死にお願いした。 「お願いしますよ~。質問やめてくださいよ~。この通り~」 「いやだね。フンッ!」 小松原は手下を送り込んだ。カネもしこたま付けてやった。 「藤沢先生! ちょっとちょっと!」 「小松原先生から贈り物です」 「これも懐へどーぞ」 「山県卿がもっとイイモノくれるんですって!」 藤沢は怒った。 「うっとうとしい! こんなもんでワイはたぶらかされんぞ! ワイの忠誠は新高
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