藤原不比等の言うとおりであった。 新羅僧・行心(こうじん・ぎょうしん)が大津皇子に近づいたのである。 「太子の骨相は人臣の相にあらず。これをもって久しく下位にあらば、おそらくは身をまっとうせざらむ」 「何のことだ?意味が分からない」 「私は人相を見ます。太子、あなたの人相のことですよ。太子の人相は帝王の相だということてすよ」 「僕は太子ではない。太子は異母兄草壁皇子だ」 行心は笑って続けた。 「あーあ。女帝の代になってから居心地が悪くなりました。先帝(天武天皇)は親新羅政策を採っていたが、女帝はそのオヤジ(天智天皇)と同じく反新羅政策だ。新羅人は邪険にされている。そのうちにわしも東国のほうにでも追いやられるだろうよ」 「そんなことはない。女帝は優しいお人だ。新羅人だからといって罪人でもない人を追放したりはしないよ」 「そうでしょうか?わしなんかより、あなたのほうが危ない。あなたは女帝の継子
天武天皇十四年(685)九月、天武天皇は発病した。 「なーに。薬師寺(やくしじ。本薬師寺。奈良県橿原市。後に奈良市へ移転)建立を発願した功徳によってすぐに治るさ」 が、僧たちに読経させても一向に良くならない。 百済僧・法蔵(ほうぞう)と優婆塞(うばそく。在家僧)・益田金鐘(ますたのこんしょう)が取り寄せたオケラの煎(い)り薬も飲んでみたが、翌天武天皇十五年(686)五月には重病人になってしまった。 「こうなったら大赦だ」 天武天皇は凶悪犯まで釈放して獄舎を空っぽにしてやったが、それでも病気が癒えることはなかった。 「何が原因なのかしら?」 心配した鵜野讃良皇女は、占星台(せんせいだい。後の陰陽寮)に務める陰陽師・津守通(つもりのとおる。津守道)に占わせてみた。 じゃらじゃらじゃらら~、チーン! 「出ました!草薙剣(くさなぎのつるぎ)のたたりでございます」 草薙剣は三種の神器の一つで、尾張熱
しばらくして、また仏殿に誰かが入ってきた。 「やはり、気になるのはここだ」 声に聞き覚えがあった。 さっきのリーダーらしき男であった。 「これだけ捜しても見つからないとなると、さっき調べなかったふたの開いていた箱が怪しい」 「なるほど。我々の心理のウラをかいたってわけですね」 「こしゃくなヤツだ。中から引きずり出してボコボコにしてやれ!」 「ははっ!」 ゴトッ、ゴトン。 さっきまで俺が隠れていた唐櫃はひっくり返された。 ガサガサガサ。 ぽい!ぽい!ぽい!ぶわさどわさ!ぶわさどわさ!もぬけのから~。 「あれ?やっぱりいませんよ」 「中にあるのはお経だけです」 そりゃそうだ。 俺はとうに貴様らがあさり済みの唐櫃の中に移動済みなのだ。 「チッ!ここだと思ったのに、いないのかっ」 リーダーらしき男が部下に聞いた。 「ところで、このお経はどんな種類のお経だ?」 「えーっと。大般若波羅蜜多経(だいはん
俺、グリコ。 じゃなくて、モリナガ。護良親王。 後の平成の世では、モリナガよりモリヨシと読むらしい。 ただし、護良親王を名乗るのは少し後の話で、元弘二年(1332)現在は尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と名乗っている。 そう。坊さん皇族である。 でも、ただの坊さんじゃない。 天台座主(てんだいざす)という比叡山延暦寺(滋賀県大津市・京都市左京区)の住職で、日本仏教界のボスなのだ。 そうだった!自己紹介なんかしている場合じゃない! 俺は悪いヤツラに追われているんだった! まあ、あっちからすれば俺のほうが悪いヤツだ。 そう。俺はお尋ね者。 鎌倉幕府にたてついた反逆者。 え?具体的に何をしたかって? 俺の父は後醍醐天皇だって言えばお分かりだろう?(「天皇家系図」参照) そうだよ!正中の変と元弘の変(これから元弘の乱)だよ! 分からない人は、「秘密味」と「窮地味」と「子供味」を御覧あれ。 父の倒
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