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浅間山のふもと、上野の鎌原村に、悪い女と良い女がいた。 悪い女と良い女は、二股男と付き合っていた。 村祭の夜、悪い女と良い女はバッタリ出くわした。 「こんばんは。これ、あたしの恋人」 「はあ?あたいのオトコだけどっ」 二人は同時に二股男の浮気を知った。 「ひーん!」 良い女は泣き出し、悪い女は二股男に食ってかかった。 「コノヤロー、浮気しやがって!あたいとこの女のどっちか選べよっ!」 「じゃあ、こっち」 二股男は即座に良い女を選んだ。 しばらくして、二股男と良い女は結婚してしまった。 悪い女は怒った。 「あのアマー!あたいほど色気もねえくせに、一丁前に人のオトコ盗りやがってー!」 悪い女はむんずと五寸クギをつかむと、ダッと自宅を飛び出した。 「ぶっ殺してやる!」 悪い女はものすごい速さで良い女の家の前を走り過ぎると、鎮守の社に乱入、 べりべりべりー! しめ縄をぶっちぎってワラ人形をこさえた
天文十二年(1543)八月二十五日、倭寇のボス・王直は、部下百人を乗せた戎克(ジャンク。中国式巨大帆船)で種子島の西之の小浦(門倉岬。鹿児島県南種子町)に来航した。 筆者は昔、「南蛮船が漂流」と習った覚えがあるが、南蛮船ではなく明船で、漂流ではなく自発的に来航したとみられる。 ただ、この船には鉄砲を持ったポルトガル人は乗っていたので、「ポルトガル人が鉄砲を伝えた」ことは確かのようである。 ポルトガル側の基本資料『世界新旧発見史(アントニオ・ガルワン著)』には、種子島に漂着したポルトガル人の名前としてアントニオ・ダモッタ(Antonio da mota)、フランシスコ・ゼイモト(Francisco Zeimot)、アントニオ・ペイショット(ペソト。Antonio Pexoto)の三人を挙げているが、漂着年は天文十一年(1542)となっている(天文十二年は日本側の基本資料『鉄炮記(てっぽうき。
明治二十九年(1896)九月、小泉八雲は帝国大学の英文学講師になってしまったため、一家で上京することになった。 「東京よ、東京!」 小泉節子はウキウキ喜んでいたが、 「東京は地獄です。三年我慢できません」 都会嫌いの八雲はうれしくなかった。 「あなた、喜ぶから行くだけ。私、行きたくない。もう東京には、広重描いたような江戸、ありません」 八雲は東京が西洋化していることが気に入らなかった。 「私、理解不能。日本人、なぜ西洋のマネする? 日本人、いいものたくさん持ってるのに」 八雲は西洋的なものよりも日本的なものを愛した。 仏教にも興味を持った。 彼は聖書は愛読していたが、牧師は信じていなかった。 「キリスト教の教導者、ニセモノばっか」 あるとき、あまりに八雲が、 「西洋くさいものはダメ」 とばかり言うので、節子が言ってやった。 「あなた、いつもそう言いますけど、あなたの顔自体が何より西洋くさい
明治二十五年(1892)、ハーンは松江中学から第五高等中学校(後の熊本大学)へ転任した。 小泉節子とともに熊本(熊本県熊本市)へ引っ越したのである。 「こっちの冬、寒くない」 ハーンは喜んでいた。 「お気に入りの場所、発見。明日の夜、一緒に行く」 ある晩、ハーンは「お気に入りの場所」に節子を連れ出した。 そこは周りに何もない、ただのさびしい墓場であった。 「こわいよ~。何もないし~」 節子がおびえていると、ハーンが耳を指した。 「カエルの声、聞こえます」 なるほど、何もなかったのは、一面カエルの大合唱を引き立たせるためのようであった。 熊本時代にも二人は旅行に出かけた。 中国山地の田舎で、薄気味悪い宿屋に泊った。 節子は嫌がった。 「なんか出そうですけど~」 ハーンはヒッヒと笑った。 「だからいいんです~」 ヌウ~ッとオバアな女将が出てきて、 「こちらへどうぞ」 と、二人を二階の暗~い部屋
というわけで今回は日本史にかかわりの深い英国人を紹介する。 というと、 「英国人が出るの?どうせまたワルなんだろうね」 そう思われる方が多いであろう。 何しろ今まで弊サイトに登場してきた英国人はワルばっかである。 「富豪味」のグラバー → 自称ワル 「攘夷味」のオールコック → 高杉晋作らから見てワル 「制裁味」のチャーチル → 大日本帝国から見てワル 「海難味」のドレーク → 誰から見てもワル これでは読者の方々に「英国人=ワル」というイメージを与えてしまうため、今回は極めて善良なる英国紳士を用意した。 文豪ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)、日本名・小泉八雲(こいずみやくも)である。 [2012年7月末日執筆] 参考文献はコチラ 「小泉八雲」登場人物 【小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)】こいずみやくも。小説家・日本学者。 【小泉節子(セツ)】こいずみせつこ。八
下道真備は帰国後、正六位下・大学助(だいがくのすけ)になり、三年後には従五位上・中宮亮(ちゅうぐうのすけ)となった(「古代官制」参照)。 下位の貴族であるが、同時に唐から帰国した僧正・玄昉(「温泉味」など参照)とともに橘諸兄(「テロ味」など参照)政権の政治顧問となり、朝政を左右できるほどの力を持ち始めたのである。 (やはり、唐で学んだことは無駄ではなかった) そんなある日、真備は妻と娘を連れて難波へ旅行した。 唐から帰ってきたときに入港したあの地である。 「うみー!」 都育ちの娘・下道由利は、初めての海に歓喜し、浜辺を駆け回った。 妻はというと、海は初めてではなかった。 若い頃、真備とともに何度か来たことがあった。 「なつかしいわねー」 「うん。懐かしい。西から風が吹いている」 「唐のこと?唐からの風?何か粉っぽいわね」 「黄砂だ」 真備は目をつぶった。 もや~んと唐のオンナと坊やの顔が思
昔、中国は先進国であった。 高度な文明を誇った古代王朝・唐は、周辺国家群からの羨望(せんぼう)の的であった。 当時の日本は、 「かよえ!チューゴク」 とばかりに多数の留学生や留学僧などを派遣、その最先端の文物を吸収しようとした。 これすなわち遣唐使である。 「わしは帰ってきた……」 摂津難波(なにわ。大阪府大阪市)へ帰航する遣唐使船の中に、感慨深げな壮年男がいた。 「十七年ぶりの日本だ」 時は天平六年(734)。この男、養老元年(717)に入唐していた。 その間、政治学・宗教学・文学・天文学・数学・兵学・音楽などを極め、碁の達人にもなっていたのである。 「これら諸学諸芸は今後のわしの糧になる。わしには出世が待っている。ヒッヒッヒ」 男の名は下道真備。後の吉備真備である。 真備が平城京の自宅に帰ると、妻と子が出迎えた。 「お父さん!」 「あなた!」 娘の名は下道由利(ゆり。「奈良味」参照)。
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