(この記事は、今の学校教育の背景あるものを、システムと個人という観点でとらえ、更に、コミュニケーションとしての言葉のあり方が絡んでくることを述べたものです。一部分だけを捉えて拡大解釈して誤読しないでね。) 内田先生が、村上春樹のスピーチについて、強靱な壁であるシステムが記号、言葉であると、壁の前の脆い卵が代替不能な個であると読んでいる。それで、小説家は代替不能な個に寄り添うものであると言う。 これって、脳と身体の関係そのものじゃないか。 村上春樹の父が、戦争について沈黙したまま世を去った。身体を喪失した段階で、記号である言葉を司る脳も消失した。村上春樹は沈黙を遺贈された。 身体は温かい。しかし、臓器としての脳の感覚を我々は持たない。その意味で、システムを作り上げる「脳」は冷たく堅牢なものであろう。言語も脳の産物である。言語と記号とシステムと脳は、常に共にある。 私が村上春樹の文学を理解でき