歌舞伎の改良を志した九代目市川團十郎は仲間を集め、1883年(明治16年)に求古会を結成、翌年4月、新富座の「二代源氏誉身換」を皮切りに、正確な時代考証を目指した史劇を上演した。團十郎の新史劇は一部の知識人などに評価されたものの、多くの観客には支持されず、仮名垣魯文に「活歴物」と揶揄された。 鹿鳴館時代の1886年(明治19年)8月、第1次伊藤内閣の意向もあって、末松謙澄、渋沢栄一、外山正一をはじめ、政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成、8月6日付『歌舞伎新報』に「演劇改良趣意書」を載せる[3]。文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止(女優を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、芝居茶屋との関係見直しなどを提言し、以下のような目標を発表する。 一 従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際にださしむること。 二 演劇脚本の著作をして、栄誉ある業たらしむること。 三 構造