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  • 「成功の鍵」が継承できない決定的な理由|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    結論から書くと「成功者だって自分がなぜ成功したか当は知らない」からだ。 もっというなら、彼らは成功の要因を捏造するといってもいい。たとえば、「毎日こんなことに気をつけて努力してきたとこがいまの成功に繋がりました」なんて体験が語られるとき、当にそれが成功要因だったのかどうか検証する術はない。もしかすると、そんな努力はさして成功に寄与しておらず、もっと外的な要因、たとえば予想外の時代の変化やある人との偶発的な出会いみたいなものが「決定的」だったという可能性もある。何が決定的だったかなんて、成功者当人にも当のところはわからない。彼らはただ、「自分はやった」と思うことをそれらしく語るだけである。 およそ彼らの語る「成功の鍵」は成功に繋がった「かもしれない」多くの要因のうちのひとつにすぎない。成功者が「多くの人に会い、礼を尽くし、その人のために何ができるか考え続けてきた。彼らとの出会いこそが成

    rockyosaka
    rockyosaka 2009/08/02
    運がよかったのだと思いましょう。
  • 運と才能に恵まれて初めて「孤独」は許される|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実のところ、他者というのは酷く面倒な存在だ。 できれば他人なんかとは関わらずに生きていきたい。もちろん不可能である。けれども、極力関わりを減らして生きることはできる。ただし、そのためには自身の市場価値を相当に高める必要がある。少なくとも今の時代に先進国で生きるためにはそれが不可欠だ。なにしろ、衣もも住も市場の中にしかない。人と極力関わらないということはつまり「極力自分の市場価値だけで市場から衣住を獲得する」ということだからだ。これは恐ろしく難易度が高い。至高というべきは「ただ生きているだけで市場価値がある」という状態だろう。そんなのは天皇くらいしか思い付かない。 だから、普通の人は他者との関わりの中で市場価値を補い合う。その典型が会社みたいな市場価値を生み出すための組織だろう。組織内での価値の大小はあれ、どんなに偉い重役でもその人個人の市場価値は大したものではない。別の組織の重役として

    rockyosaka
    rockyosaka 2009/07/16
    ごめんなさい。
  • ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「リア充」という言葉、案外、廃れない。 どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。 金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこ

    rockyosaka
    rockyosaka 2009/04/17
    だいたいその通りだが「リア充なんて所詮…」と上から目線にはならない。リア充は尊敬する。自分の周りの人はほとんど尊敬する。
  • 恋愛には確実に向き不向きがある|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    バレンタインの日にあえて記す。──ぼくは決定的に恋愛が苦手だ。 理由は簡単である。恋愛はあらゆる自己嫌悪の源泉だからである。恋愛らしきものをしているとき、ぼくは自分を醜いと思わない日はない。いや、完全に舞い上がって「オレ超ハッピー!」って瞬間はある。むしろ、それが問題なのである。そんな自分を次の瞬間自覚して厭な汗をかく。気が滅入る。たとえば誰かを好きになったとき、その誰かと仲良くなる過程は異常に愉快である。けれども、同時に自分がいかに姑息で打算的な人間かを思い知らされる。ぼくは自分が相手を気持ちよくさせるとき、それは自分が気持ちよくなりたいためだと知っている。極めて不愉快な自覚である。 青春時代のぼくにとって言葉といえば活字が中心だった。完全に話し言葉を蔑ろにして生きていた。日常会話が半文語体になるくらい軽妙さに欠ける人間だったのである。気のおけない友人たちはそんなぼくでも「少し変わってい

    rockyosaka
    rockyosaka 2009/02/16
    そうそう。自己愛が強い。自己愛性人格障害…とはちょっと違うのか。
  • 世間には自らの才能に自信のある人が多すぎる|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実力主義や成果主義に賛同する声は意外なほど多い。 ・才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い - コトリコ ・はてなブックマーク - 才能あるレジのおばさんにはそれ相応の給料を払ったほうが良い 実力があり、何かに貢献している。そういう人は何らかの形で報われてしかるべきだとぼくも思う。ただ、リンク先のような考え方には諸手を挙げて賛成はできない。あまりに素朴で短絡的だとも思う。たとえば、怒られていた新人の女の子がとても可愛くて、人当たりも良く、お陰で密かに店の売上に貢献していたとする。その場合、そのルックスや対人スキルに対してもやっぱり相応の給料を支払うべきだろう。そうした「現時点で給与に反映されていない才能」は、レジ打ちのような分かりやすい才能に限らず数多存在するはずだ。それらすべてを公平に評価することは難しい。 会社のように集団で働くことを考えると、そうした評価はより難し

    rockyosaka
    rockyosaka 2008/12/03
    「世間には」は言い過ぎ。ネット上(のある程度目立つ人)にはマッチョが多い。きめえ。
  • 自己責任という名の利己的な楽観主義|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自己責任ほど肥大した自己を感じる言葉はない。 自分が被った不利益の責任は自分にある。何という思い上がりだろう。人はそんなことがいえるほどに全能ではない。無力である。自分が被った不利益の“一因”は自分に“も”ある。いえても、せいぜいその程度だ。そして、「原因」は「責任」とイクォールで括れるようなものではない。自己責任なんていう人は、自分が失敗さえしなければ不利益を被ることはないとでも思っているのだろう。心配は要らない。不幸はちゃんと理不尽にやってくる。要するに、あなたがまだレイプされていないのは単に運が良かったからにすぎない。別にあなたがしっかりしているお陰じゃない。 もちろん、「原因」を減らす努力はした方がいい。不幸な事件から教訓を読み取ることも有用だろう。それは自己責任論とは別の話である。何故なら、あらゆる不幸を想定してその原因を取り除くことはできないからだ。逆にいえば、どんな不幸も原因

    rockyosaka
    rockyosaka 2008/11/30
    その通りなんだけど、自己責任とか自分の実力とか叫んでる人がこれを読んで考えを改めるとも思えないのが哀しいところ。
  • 処女萌えが嫌われるのは妄想度が低いせいである|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    まず前提として、処女萌えを嫌うのはただ好みの問題にすぎない。 ・★ 電脳ポトラッチ: 処女萌えを嫌悪するのは処女である 処女信仰をジェンダーの問題とする議論は可能だろうけれど、ここでは単に恋愛対象としての処女萌えに限った話をする。リンク先にも書かれている通り、多くの処女萌えは妄想の産物である。特に童貞のオタクにとって処女は妄想を育てやすい属性なんだろう。一方で、非童貞のモテが処女を喜ぶのは、稀少性や自己顕示欲によるところが大きいように思う。程度の差はあれ、脱がせてみたら巨乳だった、というのと同じである。これらに対する典型的な批判としては、リンク先にもあるように、前者には「妄想の気持ち悪さ」、前後者に共通して「属性で選別する非礼」がある。 まず、オタクの処女妄想が気持ち悪いというのは文字通り好悪の問題である。エロゲやらエロ漫画やらの影響が色濃いとなればなおさらだ。個人の欲望に基づく妄想みたい

    rockyosaka
    rockyosaka 2008/11/26
    とりあえず、俺は「○○だから好き」と言われたら超うれしい。と思う。たぶん。
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