「私が死んでもカメリアダイヤモンド…」
逝去から3日経った今でも気持ちの整理がつかずにいる。 その昔、75年の猪木対ロビンソンの立会人として初めて「カール・ゴッチ」という名を認識して以来30年以上ゴッチ関連の記事を読みあさってきた一フアンとして、書き留めておかねばならない二つのことを記しておく。 (1)昭和40年代前半(1960年代後半)すでにゴッチ人気は凄まじいものがあったということ。 よく「猪木がゴッチを神格化しなければゴッチはただの隠遁者として世を終わっただろう」というような意見が見られるが、これは必ずしも正しくない。 昭和40年代前半の月刊ゴングのバックナンバーあたりを見れば分かるが、新日本プロレス旗揚げ以前にして既にカール・ゴッチは日本のフアンに熱狂的に支持されていたのである。 昭和43年インターナショナル王者として不動の地位を確立していた馬場に、ゴング編集部(竹内宏介氏?)がいくつかの提言をしており、その中で「基礎体
この間の週末、ちょっとヤボ用で出かけたのですが、PASMOを持って行くのを忘れていて改札の前でポケットを弄っていたら、見知らぬ御婦人が近寄ってきて「地下鉄乗られます?じゃぁ、コレどうぞ」と一日乗車券を渡されたのですよ。 どうも、私は30代半ば以上の女性に受けが良いようで。この間などは新宿の場末の純喫茶で茶をシバキ回しておりましたらば、化粧の薄い今いくよ師匠のような、ケバい沢田亜矢子さんのような、間を取ったようで全然間を取れていない場外級の高年女性が近寄ってきて「アンタ、ちょっと眼鏡外して。ねぇ、外してよ」と言われ、あまりに怖かったので素直に外してみせたところ、私の顔を両手で挟み、「あぁ、やっぱり。思った通り。アンタ、市川右近にそっくりよ」と言い、ボクの紅茶を一口啜り自分の席へと思って行ったかと思いきや、間髪入れずに新たな標的の方へと襲い掛かって行ったのでありました。 尋常で無く恐ろしい上に
第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を 第1回全日本剣道選手権大会決勝 榊原正錬士対阿部三郎教士 第1回全日本剣道選手権大会は、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館で全国より53名の剣士が参加して開催。1万人を超える 観衆が集まった。 本大会は、戦前の剣道界の慣習であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けず、 各府県の予選を経て代表者を出し、剣道日本一を決するという画期的な構想によるものだった。 優勝の榊原正は大正9年愛知県蒲郡市生まれの33歳、名古屋矯正管区法務教官(剣道師範)、のちに剣道範士八段。戦前は名門東邦 商業で活躍した剣士。準優勝の阿部三郎は大正8年福島県相馬生まれの34歳、警視庁の剣道選手でのちの
入隊して4日目でウイルスにやられてゾンビみたいになっちゃってましたけど、回復してからはちゃんと戻りました。ただいまビリー。ゾンビってる間も心はキャンプインしてたんだよ・・・!!なんか、逆にビリっておかないと焦ってきてしまって「がんばれ私の免疫力・・・!」て超必死でした。ビリーは私に何か魔法をかけたんだと思います。でもまたぶっ倒れてもしんどいので慎重に、ビリーしたら筋肉休息日を2日とってまたビリーしてっていうペースで。ここ最近はビリー2日間にして筋肉休息日を1日とってまたビリーっていうペースに変えたとこです。気分としては順調な感触です。 尋常じゃないくらい筋肉がなくて私を支えているのは骨と脂肪なので、しばらくは体重が増えるんだろうなーと覚悟してたので体重が減らなくても動揺しないように暗示をかけました。なのでウエストとかヒップとか太ももとか足首とかをねっとりとメジャーで測っています。そんで、ウ
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