その日、祖母は24歳だった。 夏の長崎――。朝から蒸し暑く、坂道にセミの声がわんわんと響いていた。空は快晴、しかし少しずつ雲が増えている。早朝から出ていた空襲警報は10時ごろに解除された。彼女は7歳下の妹と一緒に、もんぺ姿で家を出た。隣の戸石村まで徒歩で1時間ほど。戸石には一家の墓があり、お盆前に掃除を済ませておくつもりだった。 祖母は5人姉弟の長女で、海運局職員の家庭に生まれた。戦争が始まる前は裕福な暮らしをしていたらしい。自宅は“お手伝いさん”を雇うほどの屋敷で、女学校の校門の目の前に建っていた。放課後になると、同級生たちが広い土間にたむろした。本当は1人で勉強したい日もあったけれど、強く頼まれると断れない。15歳ごろの祖母は、小柄で引っ込み思案な少女だった。 女学校を卒業後、祖母は三菱造船に就職する。今でいうOLだ。お茶くみの仕事に嫌気がさし、東京の洋裁学校に入学。五反田で寄宿生活を