2024年4月9日のブックマーク (3件)

  • 『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探求3』を読んで - 対話の哲学

    ※18000字近くあります。やっぱり永井先生すごいなあ、という文章です。 nagainotankyu3.pdfダウンロード 1 新たな付け加え 永井均の『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探求3』(以下、「この」)を読んだ。 永井は昔から〈私〉の独在性という同じことを繰り返し論じているようにも思われがちで、僕も半分そう思っていたけれど、そうではなかった。このにおいて永井は非常に重要で新しいことを付け加えている。 (僕は永井の研究者ではないし、それほど熱心な読者ではないので、永井のすべてのは読んでいないし、読み落としもあると思う。だから、このでの新しさではないかもしれないことはご了承ください。) これまで僕が理解していた永井哲学とは、世の中に数多くの人間がいる中で、この人間だけが私であるという問題を論じ続けているなあ、というものだった。時空が広がり、そこに複数の人間がいる

    『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか 哲学探求3』を読んで - 対話の哲学
  • 心という機械と小説の関係性 - コスタリカ307

    今日はより良い小説を書くために我々はどうするべきかという話をしたい。 僕の考えでは、人間の心は機械である。小説は人間の頭の上で実行することが可能なプログラムだ。人間の頭はインタプリタなので、ソースコードそのままの形である小説を実行できる。実行すると、実行した人間の心に変化が起きる。驚いたり、恐怖したり、深い感動を味わったりするのだ。それが小説を実行して得られる結果である。 ある種の人々はこうした主張を間違いだと反論する。人間の心は機械ではない。我々は機械以上のものだ。魂があり、信念があり、愛がある。心とは深い神秘のヴェールに覆われた謎の存在であり、崇高なものなのだ。人はその力を信じてさえいればどんな偉大な仕事でも成し遂げることができる。 僕は、これを間違った物の考え方であると捉える。未熟な人間性の発露だと思っている。魂も神も不死も実際には存在しないからだ。とはいえ冒頭に掲げた結論――人間の

    心という機械と小説の関係性 - コスタリカ307
  • サミュエル・ベケット『名づけえぬもの(The Unnamable)』(from Trilogy)|ポインツマン

    第三作『名づけえぬもの(The Unnamable)』 旧訳にあたる安藤元雄訳では「名づけえぬもの」、新訳にあたる宇野邦一訳では「名づけられないもの」の邦訳となっているが、前回(『マロウンは死ぬ』)と同じくこの記事では旧訳の表記を用いる。 ようやく三部作も完結作までこぎつけたわけだが、なるほど、ここに至って最大の難所にぶち当たった――これが、三部作の評論が極端に少ない理由の最たるものですらあるのかもしれない。 『名づけえぬもの』に至り、ついにベケットは時空間の手綱を限界まで緩める――私のような平々凡々では、もはや物語として成立しないのではないのかと、陳腐な疑問が浮かぶが、ベケットは時空間のさらに外側には因果律の掟があり、さらにはその向こうにすら、善や美、倫理と呼ばれるさらに上位の掟があると考えていたらしい(仏の世界にも階層があると考え、曼陀羅などを制作した密教の発想に近い)。時空間の掟が破

    サミュエル・ベケット『名づけえぬもの(The Unnamable)』(from Trilogy)|ポインツマン