1872年(明治5年)、明治政府は仏教各派に対し天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗の七宗派に統合して各派から管長一名を設置するよう太政官布告を出した[19](一宗一管長制)[20]。以後、大石寺とその末寺は、1872年から1874年(明治7年)には日蓮宗、1874年から1876年(明治9年)には日蓮宗勝劣派、1876年から1900年(明治33年)には日蓮宗興門派(1899年(明治32年)に本門宗と改称[21])に、それぞれ包括されていた[22][23][24]。 この間、大石寺第54世日胤は、1873年(明治6年)に教部省へ「大石寺一本寺独立願い」を提出した[25]が容れられなかった[26]。 また、大石寺第55世日布は、分離独立を内務省に願い出るが、1884年(明治17年)の太政官布達により取り下げざるを得なくなる[27]。 一方、日蓮宗興門派(本門宗)の管長は八本山が