検察が小沢の首を獲るべく動いたことが「国策捜査」であることは否定できない。しかし、それは検察が政府の意を汲んだということであるとは思えない。そうではなく、「国民代表」である検察が、国民の――より正確に言えば「人民」の――「民意」を汲んだ(あるいはやや過剰に忖度した)結果だと解釈するべきである。現代日本における検察の行動原理を理解できない政治家は、ただポピュリズムの波に呑み込まれて沈むだけだろう。良くも悪くもゲームのルールは既に変わったのであり、後は行くところまで行くしかないのではないかと思える。 佐藤優『国家の罠』を読んで感じたのは、何だか検察という機関は思いの外「民意」なるものに左右されやすいということであり、それはかなりの程度に民主化された現代的な国民国家における公権力の在り方を現わしている事態にほかならない。これはフーコーが言う「生‐権力」とも繋がってくる話であり、その辺りのことは萱