河野與一『哲学講話』から。 カント的には、「1階に感性Sinnlichkeitがあって、2階に悟性Verstandがあって、3階に理性Vernunftがある」というイメージ。感性と悟性の枠内で理性を働かせていれば問題はないのですが、感性と悟性を離れて理性が暴走すると、認識に失敗します。だから理性が形而上学を扱うのは無理。 トマス・アクィナス的には、「1階に感性sensusがあって、2階に悟性intellectus/intelligentiaがあって、その間をつなぐのが理性ratio」というイメージ。天使の悟性intelligentiaは純粋なので、一瞬にして物事を理解します。一方、人間の悟性intellectusは不純なので、物事を理解するのに時間が掛かります。この時間を掛けて推論(reason)していく際に悟性の補助的に働くのが、理性ratioなのだとか。 ドイツ語のVerstehenか