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思想-ラカンに関するrrmmjjffのブックマーク (2)

  • 2008-12-17

    1)環境と「単位としての行為」 どのような行為にもうまいへたはある。山道の歩き方、字の書き方、ボタンのとめ方・・・。うまい行為とは環境との良好な関係だろう。良好とは経済性である。環境との関係においていかに労力少なく結果にいたるか。反復した環境との関係が上達を生み出し、それはまた「単位としての行為」となる。 環境は耐えず変化する。そして環境と行為の関係が一回限りでは上達するどころか行為という単位をもちえない。運動が(単位としての)行為となるためには環境に対して反復して上達することである。 2)社会とものまね行為 環境の中でも重要であるのは社会である。社会とは人の環境である。鏡像関係と言われるように他者の行為を真似ることは行為を形成する上でも特別である。行為を手に入れるための時間短縮できるハイウエィである。人は一から環境との関係から「単位としての行為」を生み出すことはほとんどなく、他者を真似る

    2008-12-17
  • 脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    *所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。 1 収束(主体)−拡散(動物) 2 否定神学/脱構築 3 マクドナルド化と動物化 4 収束−発散構造論 5 終わりなき連鎖としての否定神学−脱構築 1 収束(主体)−拡散(動物) 1) デリダの構造論と倫理論 たとえば「日人」を考えましょう。日人は、「日人」に対して、「われわれ日人というのは・・・」「日人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。 デリダはこれを形而上学と呼びます。「日人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。 脱構築とは、このような形而上学に対

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