ぶくまでみかけた⇒東浩紀の渦状言論: 信頼社会は不安社会よりいいのか? つまりは、信頼ベースの社会というのは、基本的に信頼の適用範囲を限定した社会にならざるえません。 ここだけが重要っていうことではないんだけど、なんか基本がずれている感があるので。 信頼というのは、個人の価値の、つまり友人とかの選択とか、情報の選択という場合の信頼性というのと、国家=公、の信頼性とは別で、こちらは限定というより、公義のなかに信頼性が自然に含まれているものでないといけない。たとえば、あの裁判官は信頼できないというのは別段公言してもいいけど、裁判制度が信頼できないというのは違う。もしそうならそれを公義に信頼に足るものにしないと。(あと貨幣が信頼できるというも公義のうちかな。) で、信頼の社会というのは、実際には、そうした公義だけの問題ではないんだろうか。 不安ベースの社会は、人間を人間扱いしない、ぼく風の言い方