rum64のブックマーク (107)

  • (40)庶民の家と貴族の家 - なぶんけんブログ

    身分に応じ国から支給 広大な敷地に立派な建物。著名人の豪邸を紹介するテレビ番組を、羨ましく眺めることがあります。 平城京の住民の宅地は、国から身分(位)に応じて支給されました。 位の高い貴族の邸宅は、庶民とは桁違いの規模を誇っていました。奈良時代前半の権力者、長屋王の邸宅は、平城宮に近い場所にあり、敷地は推定6万平方メートル、甲子園球場の約1・5倍の広さがありました。そこには間口が24メートル、奥行き15メートルの正殿をはじめ、格式の高い立派な建物が並んでいました。出土した木簡から、邸内で衣住の準備から一通りの調度品の製作までがおこなわれたことがわかります。高位の貴族ほど平城宮に近く、しかも広い宅地が支給されていたのです。 それに比べると庶民の宅地は、長屋王邸とは比較にならないほど小さく、平城宮からも遠く離れていました。宅地内には小規模な掘立柱(ほったてばしら)建物が2、3棟と畑や井戸が

  • 貴族の屋敷と庶民の住まい|橿原市公式ホームページ

    藤原京遷都に先立ち西暦691年(持統5)12月、藤原京における宅地班給(たくちはんきゅう)の基準が決定しました。宅地の広さは身分によって細かく定められ、最も広い宅地から4町(ちょう)、2町、1町、2分の1町、4分の1町となっていました。実際にはさらに小さい8分の1町の宅地も見つかっていて、宅地面積の差は単純にみると32倍もの格差があります。具体的には、貴族は1町以上、下級役人は1町未満で、宅地は家族数や納税額によって分けられていました。 また、貴族の邸宅には、正殿(せいでん)や脇殿(わきでん)、後殿(こうでん)といった建物や倉庫が整然と建ち並んでいたことが発掘調査でわかっています。これに対し、8分の1町の宅地では、建物の配置に規則性がなく、数棟の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)と塀(へい)、それに井戸が見つかるのみの宅地もあります。 さらに、藤原宮の近くには大きな宅地が多く、宮から離れ

    貴族の屋敷と庶民の住まい|橿原市公式ホームページ
  • 氏族データベース – 國學院大學 古典文化学事業

    県主あがたぬし 令制以前の地方支配制度である県(アガタ)の首長が任ぜられた官職であり、それがのちにカバネとなった。大王が必要とする人・物を提供し、特殊な歴史的伝統からその祭祀にも関与したとされる。 ▼さらに表示 景行記には諸王を県主に分封したとあるが、これをそのまま史実と捉えることはできない。県主が支配した県(アガタ)の性格をめぐっては、井上光貞と上田正昭による「国県制論争」が著名である。井上が7世紀初頭までに国―県という地方支配制度が成立したと想定するのに対して、上田は史料から「国県制」のような整然とした支配制度を認めることは不可能であると批判、県制を国制に先行する支配体制として、3世紀後半から5世紀にかけて展開し、6・7世紀には畿内とその周辺に遺制を残したにすぎなかったものと論じた。県制の成立を5世紀以前とする点には批判もあるが、県制を国制に先行する制度とする上田の主張は、現在ではおお

  • 日本書紀、全文検索

     日書紀について 日書紀は、日紀とも呼ばれ、720年に勅修された日歴史書。いわゆる正史であって、神代から持統天皇までをその記述対象としています。 通常、古い和風の訓読みがなされていますが、原文は純粋な正統的漢文であって、漢文として読む方が文意を取りやすい面があります。 このサイトでは、日書紀の原文(漢文)を読み・検索できるようにしてみました。底は岩波古典文学大系(卜部兼方・兼右)/1990年発行版で、表示フォントの不足などの理由により一部異字体に差替えするなどしています。また、見やすくするため、段落分けを多用し句読点の位置変更などを施しています。 日書紀(原文)を全文検索 ◆日書紀を検索する←click! 神代~持統天皇紀までの日書紀の原文全体を検索できます。旧字体への自動変換機能(完全ではない)があります。 日書紀、各巻の原文ページ 各巻ごとに原文をページ分け

  • 特別展「はにわ」 @東博・上野 - 墳丘からの眺め

    始まって最初の土曜日の日10月19日、10時前に到着。受付混雑回避の入場待ちが少しありました。 「挂甲の武人」が国宝指定されて50周年を記念する展覧会で、”全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結”しています。 第2会場から誘導され、最初の部屋に5体の武人に対面。いずれも群馬県出土(太田市4体・伊勢崎市1体)で、太田市のうちの1体はシアトル美術館から”一時帰国中”。 東博の武人もぐるりと鑑賞できます(Googleで消しゴムマジック初めて使用) オリジナルと推定される色をまとったレプリカも。 和歌山・岩橋千塚古墳群の大日山35号墳出土の「両面人物埴輪」 (2つのお顔と)対面できて嬉しかったです。 同古墳からの「翼を広げた鳥形埴輪」は、でかい鳥でした。 オクマン山古墳(群馬県太田市)の鷹匠埴輪に再会。 背中を見るのは初めて。 「踊る人」は伝群馬県出土(@さきたま史跡の博物館

    特別展「はにわ」 @東博・上野 - 墳丘からの眺め
    rum64
    rum64 2024/11/03
    靫を背負う武人の後ろ姿が鮮明な写真で見られて嬉しい
  • 寄り添う姉妹 - 還暦のカメラ小僧・三好学生のフォトライフin大阪

    けさ、西成の木造アパートで見かけたの姉妹 けさ、出勤の途中で、西成の商店街の脇に立つ木造アパートの前を通った。 玄関の扉が開いていて、そこに頼りないくらい柔らかい朝日が差し込んでいた。 その日だまりといえる場所に姉妹のがいた。 2匹のは相変わらず仲がいいようで、板の間で寄り添っていた。 時間に余裕はなかったが、いい光景だなと思い、急いで撮影した。 大柄なは私を警戒して、後ろに下がった。小柄なは何かの物音に反応して、音のする方に目を向けた

    寄り添う姉妹 - 還暦のカメラ小僧・三好学生のフォトライフin大阪
    rum64
    rum64 2024/11/01
  • 藤原宮大極殿院南門前幢幡遺構の配置について - なぶんけんブログ

    2019年9月 2016年に藤原宮大極殿院南門前で発見された7の幢幡遺構についてはこのコラムでも以前に取り上げられてきました(2017年3月、2018年11月、2019年4月)。大宝元年(701)元日の朝賀の時に烏形幢、日像幢、月像幢、青龍幡、朱雀幡、白虎幡、玄武幡を立てたと考えられる柱穴の跡です。 翌年の発掘調査報告(『奈文研紀要2017』「藤原宮朝堂院の調査―第189次」)によると、南門(梁行7間、桁行2間、17尺等間に想定できます)との位置関係については、烏形幢は南北中軸線上、南門南階段下から70尺南、日像幢・月像幢は東西に80尺離れて南門南階段下から40尺南の位置に配置し、四神幡は南門東西の両柱列に合わせた位置で、青龍幡・玄武幡は南門の南側柱列心から南へ45尺、朱雀幡・白虎幡は南側柱列心から南へ65尺に配置したと考えられています。中央の幢の位置は大極殿の南階段下から測り、両端の

  • 烏形の幢は八咫烏か - なぶんけんブログ

    2019年4月 藤原宮大極殿院の南門前から2016年の夏に発見された7の幢幡遺構。その配置と性格について、2017年3月1日の作寶楼「藤原宮の幢幡遺構を読み解く」で私見を述べました。その際に未解決の課題として残されたのが、中央に位置する烏形の幢の性格でした。この烏形幢は、四神幡や日月像と異なり、同時代の中国の隋や唐にも類例がありません。 そこで今回は、この烏形幢の性格について考えてみたいと思います。 前回の復習になりますが、『続日紀』大宝元年(701)正月条に、藤原宮の正門前に烏形の幢(はた)を立て、その左右に日月像と四神幡を立てて、元日朝賀の儀式を行った様子が記録されています。日月像と四神幡は陰陽五行思想を象徴するアイテムで、陰陽が調和し、五行が規則正しく循環する姿を幢幡で表現し、理想的な国家統治を願ったものと考えられます。 ではその中央に位置する烏形の幢は、一体何を意味するのでしょ

  • 平城宮第一次大極殿院における幢旗遺構の発見と奈文研の継続調査

    2018年11月 元日朝賀と即位式は、古代国家にとって最も重要な儀式でした。これらの儀式に用いられたのが、烏・日月・四神をモチーフにした7の宝幢・四神旗(幡)(以下、幢旗(幡))です。平安時代の史料には、主柱に2の脇柱が付く3柱の幢旗が大極殿の前に7横一列に並ぶと規定されています。1983年に第二次大極殿の前でこの宝幢・四神旗を立てた遺構が発見されると、発掘遺構からその実態に迫ることが可能になりました。 2016年、大宝元年(701)元日朝賀にともなう藤原宮幢幡遺構が発見され、1柱を立てる柱穴が中央に1基、その東西に各3基が三角形状をなして大極殿院南門前面に並ぶという、宝幢・四神旗(幡)を立てる儀式の最初の在り方があきらかになりました(図1)。しかしこの発見は同時に、大極殿の前面で3柱の幢旗が7横一列に並ぶ定型化した配列方式へと、いつ、どのように変化したのかという新たな課題を

    rum64
    rum64 2024/10/26
    宝幢・四神旗(幡)配列のその後の変化
  • 藤原宮の幢幡遺構を読み解く - なぶんけんブログ

    2017年3月 2016年夏、藤原宮大極殿院の南門の前から、大宝元年(701)の元日朝賀の儀式で立てられた7の幢幡(どうばん)の遺構が見つかりました。『続日紀』はその儀式の様子を次のように伝えています。 「天皇、大極殿に御(おは)しまして朝(ちょう)を受けたまふ。その儀、正門に烏形(うけい)の幢(はた)を樹(た)つ。左は日像・青竜・朱雀の幡(はた)、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物の儀、是(ここ)に備れり。」 正門とは大極殿院の南門のこと。その前に7の幢幡(どうばん)を立てならべ、盛大に元日朝賀の儀式がおこなわれました。「文物の儀、是に備れり」とは、法律や儀式をはじめとする諸制度と、官僚機構や行政組織などの国家統治のシステムが整ったことを誇示する表現で、大宝元年の元日朝賀は、律令国家の完成を慶祝する式典でもありました。 その儀式を荘厳した7の幢幡の具体的

  • (163)藤原宮の幢幡シリーズ(下) - なぶんけんブログ

    「文物の儀是に備われり」 8年越しの調査により、私たちは、大宝元年(701年)に藤原宮(橿原市)で初めて立てられた7の幢幡(どうばん)(儀式を飾る旗竿(ざお))の遺構を見つけました。文献記録のある時代の遺跡を発掘調査していても、その成果と記述が見事に一致する事例は、そう多くはありません。近年の藤原宮跡の調査では、最も重要な発見といえるでしょう。 「続日紀(しょくにほんぎ)」は、7の幢幡を立て並べた大宝元年の元日朝賀(年始の儀式)の様子を、「文物の儀是(ここ)に備われり」と評しています。この記述は日文化が整ったことを高々と宣言したもので、烏形(うぎょう)、日・月像、四神からなる7の幢幡はそのシンボルともいえます。 藤原宮に始まる7の幢幡は、奈良時代以降にも天皇の即位式などの重要な儀式を飾りました。その位置は、正門(南門)の南から門の内側へ、平安宮(京都市)では大極殿のすぐ前へと

  • (162)藤原宮の幢幡シリーズ(中) - なぶんけんブログ

    配列 陰陽五行の世界観 前回ご紹介したように、藤原宮(橿原市)で大宝元年(701年)に幢幡(どうばん)(儀式を飾る旗竿(ざお))を立てた柱穴は、これまでの常識を覆すものでした。 奈良時代の恭仁(くに)宮(京都府木津川市)や平城宮(奈良市)で立てられた7の幢幡は、いずれも横長の柱穴に、3の柱(幢幡を飾る中央の柱と、それを支える2の脇柱)を立てたもので、東西一直線上に20尺(約6メートル)の間隔で並んでいました。これは儀式の様子を描いた資料とも一致していましたから、7の幢幡はこのように立てられていたと誰もが考えていたのです。 しかし、藤原宮の幢幡を立てた柱穴は正方形で、東西一直線上に並ぶものではありませんでした。大極殿院南門の階段南端中央から南へ70尺(約21メートル)の位置に1基。その東と西40尺(約12メートル)、北30尺(約9メートル)の位置に1基ずつ、さらにそこから東と西20尺

  • 杉本苑子著「散華」 紫式部の書き手としての潔さをおもう - hana-lifelog

    欲の秋?読書の秋?爆睡の秋? ※当ブログではアフィリエイト広告を利用しています 大石静さん脚の大河ドラマ「光る君へ」を欠かさず観ています。 もう毎回、「動く平安時代」を観ることが出来て、嬉しい限りです。 (役者さんはもちろん、スタッフの皆様、ありがとうございます)。 わたしはドラマを観ながら、「おおっ~」と毎回声を発しています。 たとえば、こんな場面です。 帝や貴族の、立ち上がったり、座ったりするときの無駄のない所作をみて。 高貴な女性たちが歩くときの着物のすそさばき。 高貴な方々は手を人前に出さず、袖口の中に隠していらっしゃるんですね。 中宮はじめ、お仕えする女房たちは、もれなく超ロング。下手をすると身長とほぼ同じくらいの髪の長さのように見えます。肩は凝らなかったのかしら。自分の髪はもちろん、ほかの方の髪の毛をうっかり踏んでしまったりということはなかったのかしら。わたしなら絶対に日常

    杉本苑子著「散華」 紫式部の書き手としての潔さをおもう - hana-lifelog
    rum64
    rum64 2024/10/06
    「自分のこころに忠実に書くのか」「読み手の期待に応えるかたちで書くのか」
  • 自意識だだ漏れ「ポエム」の「投稿おばさん」にならないために気を付けたいこと|大前みどり

    自分が10年以上前に書いていた昔のブログを恥ずかしいと思うと以前自己紹介に書いたのですが、その理由は全体的に文章の雰囲気が「ポエム」だからです。 「ポエム」っていうのは、 「詩」といういみではなくて、 読点が、やたら、おおいか、 もしくは とくに 改行が おどろくほど おおくて。 ひらがなの やまとことばや、 愛とか絆とか 漢字一文字の 抽象ワードの オンパレードで。 そういう文章を、 いま読み返すと、 わたしの、 文章力や語彙力が、 ないってことを、 とってもとっても 痛感するわけで。 これはちょっと大げさに書いていますが、こういう「雰囲気文章」みたいなものを「ポエム」と言っています。こういう形でしか表せないこともあるのかもしれないけれど、昔の自分の場合は明らかに文章力がないがゆえの逃げだったなあと思います。ここまで大げさには改行してないですけどね。 当時は、ポエムだろうがなんだろうがと

    自意識だだ漏れ「ポエム」の「投稿おばさん」にならないために気を付けたいこと|大前みどり
  • 白山古墳 群馬県前橋市苗ヶ島町 - 墳丘からの眺め

    前回の堀越古墳からは、北東に5.5㎞赤城山麓の斜面を上がって白山古墳を訪ねました。 すぐ北(2㎞)に赤城南面千桜の表示。 農道の脇に説明板がありました。 前橋市指定史跡 白山古墳 指定年月日:昭和53年4月1日 所在地:前橋市苗ヶ島町1659 白山古墳は、赤城山南麓の標高310mほどの台地上にある古墳時代終末期の古墳です。所有者が白山神社の跡地に埋まっている石を取り除こうとしたところ、遺物が発見されたことから、昭和29年に群馬大学史学研究室が調査を行いました。すでに墳丘は削平されていたため古墳の規模は不明ですが、玄室の規模は長さ4.3m・最大幅3.3mほどと考えられます。埴輪は出土していません。 副葬品は多量に出土し、蕨手太刀や直刀、鉄鏃といった武具のほか、和同開珎や佐波理鋺といった特殊な遺物も出土しています。和同開珎は石室の南西方向にあった石積みの中から10枚出土しており、奈良時代~平

    白山古墳 群馬県前橋市苗ヶ島町 - 墳丘からの眺め
  • 『見仏記 ぶらり旅篇』 - 群青ノート

    『見仏記 ぶらり旅篇』を読んでいます。面白い。 人、神、仏がすべてそこに等しく祀られていた。そもそもまず、日には神道とさえ言えないような自然への信仰があった。そこに仏教が入ってくると、まず宇宙には仏が存在してそれが神の姿であらわれるという地垂迹思想が形成された。神仏は習合した。 談山神社の旧講堂はまさにその日的な信仰の例を示していた。 「須弥壇ないのが特徴だね」 とみうらさんが言うように、神社であるか否かは像というより、祀られ方にあった。そもそも神道では神は姿をあらわさない。神秘的な存在が形になって出現するのは、仏教以後の考え方である。したがって神像自体が、すでにして習合の結果だ。 『見仏記 ぶらり旅篇』 p82 このへんは、「ふえー」となった。自然への信仰というのは、三輪山への信仰のようなものを言うのだろうか。でも「神道とさえ言えない」とあるから、ひょっとしたら手塚治虫の『火の鳥』

    『見仏記 ぶらり旅篇』 - 群青ノート
  • 『産業遺産と環境のまち足尾』銅親水公園と砂防ダムまでのドライブ - 花ワン diary

    栃木県日光市足尾町の銅(あかがね)親水公園と砂防ダムまでドライブしてきました。 何かこの場所のひっそりとした雰囲気が好きなんです。 今では人の姿もあまり見かけず、どこかさびれた印象さえあります。 でも、それが逆に心地良いんです。 足尾のまちを歩くと、かつて銅山として栄えた頃の面影がいたるところに見られます。 精錬所や大煙突の跡が今も残り、特に煙突は高さ60メートル、直径6メートルと、製錬所のシンボルでした。 まち全体が日の近代産業発祥の頃を物語る博物館のようです。 ある町の高い煙突 (文春文庫) [ 新田 次郎 ] 価格:825円(税込、送料無料) (2024/9/4時点) 楽天で購入 銅親水公園は足尾砂防ダムの下に作られた公園です。 “荒廃した山々に緑と潤いを取り戻そう”と国・県・町の共同事業により、平成8年に完成しました。 園内にかかる橋は足尾の象徴ともいえる「銅(あかがね)橋」です

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  • 立川談慶著「落語はこころの処方箋」を読んで膝を打ったおはなし - hana-lifelog

    ※当ブログではアフィリエイト広告を利用しています 学生の頃に友人に連れていってもらった寄席。 それから、なんだかんだと今も時おり演芸場に行ったり、テレビでの放送、YouTube、CDなどで落語とのおつきあいがずっと続いています。 たとえば・・ 桂枝雀さん 演じているときの大ぶりなアクションも含めて好きです。 柳家小三治さん 日の落語の演目の前に話される、ちょっとしたお話「まくら」が秀逸です。 「まくら」という題名の師匠のも出版されています。あ、師匠ごめんなさい、落語も好きですよ。 春風亭小朝さん お噺の内容についての画像が目に浮かびやすいです。 また女性を演じても艶があってホントにお上手だと思います。 桂歌丸さん 夏の怪談話は怖かったです。だって帰り道は怖かったですもの。 三遊亭兼好さん 最近ファンになりました。 一癖もふた癖もある売れっ子のお花魁を巧みに演じられていてガツンとやられま

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  • 平城京の北の果て...佐紀盾列古墳群を歩く (後編) - すまりんの てくてく ふたり旅

    奈良の平城京の北の果てをてくてく🐾🐾 すまりんたちは 古墳を巡りながら歴史散策をしています 日 「後編」です(^_-)-☆ 平城宮跡歴史公園の北辺を西へ歩いていくと 見えてきたのは復原された大極殿 他の建物の復原事業も行われているようです 平城宮跡の航空写真(photo byすまき) 佐紀神社を過ぎて… 池のほとりをめぐり… 旧い街並みを抜けて行くと… 再び古墳が現れました! ここから 佐紀盾列古墳群の西側部分のかたまりに入ります 佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は 宮内庁により 第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」に治定されています ※かつては神功皇后陵とも考えられていました 全長207mで全国32位の大きさです 「日書紀」によると… 垂仁天皇の叔父の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき 近習の者を集めて

    平城京の北の果て...佐紀盾列古墳群を歩く (後編) - すまりんの てくてく ふたり旅
  • 平城京の北の果て...佐紀盾列古墳群を歩く (前編) - すまりんの てくてく ふたり旅

    あいにくの曇天ですが すまきとすまりんは奈良の東大寺にやってきました 奈良公園の鹿さんが一緒に写真を撮ってくれました💛 圧倒される大きさの大仏殿✨ まだ朝早いので人も少なめです(^_-)-☆ すごく久しぶりに東大寺の大仏殿に入場し 大きな大仏様を拝見しました✨ 自由に撮影もできるので ありがたいです(*^^*) 大仏様と すまき 大仏様の高さは15m!迫力があります✨ 正式名は「廬舎那仏」 聖武天皇の命で造られ 752年に完成したと言われています 大仏鋳造のための銅が 山口県の長登銅山から運ばれていたお話を以前させていただきました www.aranciarossa.work これは建設当時の伽藍の50分の1の模型です 創建当時の大仏殿は現在よりも大きく1.5倍の幅がありました しかも 両側の塔は70mの高さがあったということ👀 クレーンもない昔 どうやって建立したのでしょうね 穴くぐり

    平城京の北の果て...佐紀盾列古墳群を歩く (前編) - すまりんの てくてく ふたり旅