父も母も大好きだったけれど、いつか家を出ようと思っていた。それは大海原で浮き輪から手を離して泳ぎ出すような無謀なことだとわかっていた。けれども、大人へのあこがれと、自分はもう一人で生きていけるんだということを世界に証明したかった。 サンフランシスコに着いた日の夜、公衆電話に鎖でつながれた電話帳から、ホテルを探して電話をかけた。英語が通じなくて電話は切られた。マーケット・ストリートを歩くと、いくつかホテルの看板を見つけたが、ドアマンがいるようなホテルに泊まるお金は、僕にはなかった。 いつしか強い雨が降ってきた。鮮やかな色をしたネオン管に24時間と書いてあったドーナツ屋に入り、コーヒーとシナモンドーナツを注文し、カウンターに座って食べた。 ジーンズのポケットから小さなノートを出して、「エクスキューズミー」と言ってから、ホテル、安い、探している、と単語を書いて、それをひとつひとつ指差しながら、カ
赤穂緞通 緞通(だんつう)とは大陸から伝わった絨毯の一種。厚みを生かした立体的な表情が魅力です。幕末の播州赤穂(兵庫県)に生まれた女性、児嶋なかが考案したと伝えられる赤穂緞通は、九州の鍋島緞通、大阪の堺緞通とともに日本三大緞通と呼ばれていますが、その興味深いところは、ひとりの女性が中国の万暦絨(ばんれきじゅう)に心奪われ、独自に技法を編み出したことと、塩田で栄えた赤穂の女性たちが、副業として緞通づくりに励んだところです。 みっしり詰まった木綿糸の毛足と、握り鋏で色ぎわを切り摘んで文様を際立たせる工夫が独特で、和洋折衷様式が広がった明治、大正時代には全国的に知られる存在となり、お召し列車の内装にも。しかし第二次世界大戦を境に競争力を失い、多くの緞通場(織場)が閉鎖を余儀なくされました。 平成3(1991)年に織元を1軒残すのみとなったとき、赤穂市が伝統産業を守ろうと技術保存の講習会を発足。応
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く