「裸の個人」、いかなる規範、文化からも自律した個人など存在しない。個人とは常に、共同体内的存在であり、帰属する共同体の文化、規範、認識の枠組みといったものに侵食されている存在である。このような「共同体なくして個人なし(「裸の個人」は存在しない)」という類のテーゼを「共同体主義テーゼ」と仮に呼んでおく。 この共同体主義テーゼが主張するように、実際、個人は自分の為す行為、判断が何を前提にしているかという事について、常に明晰であるわけではない。自分が為した判断が、一切の事柄を括弧に入れた上で、自律した「理性」のみにより導き出したものだ、と思ってはいても、それが、自らの属する共同体固有の慣習、文化、認識的枠組みに「誘導された」結果に過ぎない、ということは、いかにもありそうなことだ。 けれどもここで疑問が生じる。この自分が為した判断を「誘導した」当のものは一体なんであるのか?それは言挙げすることはで