街の看板を見ていると気付くことだが、黒字と赤字だと赤字のほうが先に消えるようだ。これは看板における宿命なのか。風雨にさらされて、黒字よりもずっと早く消滅してしまう。 だから日本の街には、赤字だけが消えた看板があふれている。そのようにして、街に詩が生まれる。それは人類と雨風の合作である。 うちの近所にある家の玄関に、「猛犬に注意」と書かれた掲示がある。しかし時の経過によって、赤字の「注意」だけが消えている。その結果、掲示には次のように書かれている。 猛犬に 猛犬に、何かを捧げている。母に、娘に、恋人に。書物の冒頭によくある献辞であり、これまでさまざまな書物がさまざまな人間に捧げられてきたが、猛犬に捧げられた書物は見たことがない。 本屋で適当な本を手に取って、冒頭に「猛犬に」とだけ書かれていれば、がぜん興味が湧いてくる。絶対に購入せねばならない。この世のどこかに猛犬に捧げられた分厚い書物がある