島木赤彦はアララギ派の歌人であった。同時に教育者でもあった。若くして授業生(教員補助みたいなものか?)となり、師範学校を出て、いろいろの学校の校長をしたり、教育担当の行政官である群視学になったりもしている。 教育においては、野球をやったり野球をやったり野球をやったり女子登山をはじめたり、明治にはじまった詰め込み教育を批判し、わりとアクティブに、そこにあるものを観察するべきだという方針をとった。一方で、実の父親も「先生」であり、儒学やなにかを教わったところから、お固いところもある。お固いところもある一方で奔放なところもある。そういう二面性がある。 実の父親がいれば、実でない父親もいる。塚原の家に生まれ(その正確も相まって少年期には「塚原卜伝」とアダ名されていたらしい)、のちに久保田という家の養嗣子になった。養嗣子になって、その久保田家の長女と結婚するところまで決められていた。そして、結婚して