2010年2月10日のブックマーク (13件)

  • 立川談志 - Wikipedia

    七代目 立川 談志(たてかわ だんし、1936年〈昭和11年〉1月2日[注釈 1] - 2011年〈平成23年〉11月21日)は、日の落語家、政治家。落語立川流家元。名:松岡 克由(まつおか かつよし)。出囃子は「木賊刈(とくさがり)」「あの町この町」。 古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談、漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝、五代目春風亭柳朝(柳朝没後は八代目橘家圓蔵)と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。 参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官(三

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  • 荒木経惟 - Wikipedia

    1940年(昭和15年) - 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)三ノ輪で生まれる。 1959年(昭和34年) - 東京都立上野高等学校を卒業する。同期に立花隆がいる。 1963年(昭和38年) - 千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業後、電通に宣伝用カメラマンとして勤める。 1964年(昭和39年) - 写真集「さっちん」で第1回太陽賞受賞。 1971年(昭和46年) - 電通で同僚の青木陽子と結婚する。 1972年(昭和47年) - 電通を退社してフリーになる。 1974年(昭和49年) - 東松照明、細江英公、森山大道、横須賀功光、深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」の設立に参加する。 1988年(昭和63年) - 安斎信彦、田宮史郎と、三人の頭文字からなる事務所「AaT ROOM」を設立する。 1990年(平成2年) - 「写真論」「東京物語」で第2回写真の会賞受賞。日写真協

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  • 三宅久之 - Wikipedia

    三宅 久之(みやけ ひさゆき、1930年〈昭和5年〉1月10日 - 2012年〈平成24年〉11月15日)は、日政治評論家、コメンテーター。元毎日新聞記者。 来歴[編集] 生い立ち[編集] 1930年(昭和5年)、現在の東京都杉並区阿佐谷南一丁目、杉並区役所のすぐ隣の家で生まれた[1]。父は日立製作所の技術者[1]。6歳のときに父が北九州工場に総務課長として転勤となり、福岡県戸畑市[注釈 3]に引っ越し、私立小学校である明治学園に通った[1]。 学生時代[編集] 太平洋戦争が始まった翌年、東京府立十九中[注釈 4]に入学[1]。ゲートル巻いて国民服のような制服を着て通った[1]。三年生から昭島に通い、九七式艦上攻撃機などの海軍の飛行機をつくる会社で組み立て作業をした[1]。 1949年(昭和24年)に早稲田大学第一文学部独文科に入学[2]。 記者時代[編集] 大学卒業後の1953年(昭

  • 上岡龍太郎 - Wikipedia

    上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年〉3月20日[1] - 2023年〈令和5年〉5月19日[2])は、日の元漫才師、元司会者、元タレント。上岡劇団座長。 名は小林 龍太郎。京都府京都市左京区出身。旧芸名は横山 パンチ、伊井 パンチ[注 1]。 その他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)、落語立川流Bコース高座名・立川右太衛門を持つ。また、作詞家としての別名義にミケランジェロをもじった「三池嵐次郎」(みいけ らんじろう)[3][4]がある。 1959年、「横山パンチ」の芸名で、横山ノック・横山フックとのトリオ芸人『漫画トリオ』として大阪でデビュー。漫画トリオ解消後の1970年代からはピンでラジオ、テレビに出演し、80年代には『鶴瓶上岡パペポTV』(パペポ)や『探偵!ナイトスクープ』などテレビ司会者として活躍。元々は全国進出の考えはなかったものの、パペポでのトークが評判

  • 円広志 - Wikipedia

    円 広志(まどか ひろし、1953年〈昭和28年〉8月21日[1][3] - )は、日の歌手、タレント、作曲家、シンガーソングライター。名は篠原 義彦(しのはら よしひこ)[1]で、その名義での活動もある。 シンガーソングライター、作曲家としてデビュー曲「夢想花」や『探偵!ナイトスクープ』のテーマ曲である「ハートスランプ二人ぼっち」、森昌子に楽曲提供した「越冬つばめ」[注釈 1]でも知られる。歌手としてはデビュー曲の「夢想花」以外に目立ったヒット曲がなかったことから、それゆえにネタで「一発屋」扱いされるものの、関西ではテレビタレントとして高い知名度を誇る。 人設立の個人事務所「オフィスとんで」所属[1]。血液型B型。現在も大阪府在住。 来歴[編集] 幼少期から歌手デビューまで[編集] 高知県安芸郡野根町(のちの東洋町野根[1])で小学校の教師をしていた父親のもと男3人兄弟(1つ上の兄

  • やしきたかじん - Wikipedia

    やしき たかじん(名:家鋪 隆仁〈やしき たかじ〉[1][2]、1949年〈昭和24年〉10月5日[4] - 2014年〈平成26年〉1月3日[5])は、日のシンガーソングライター、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。主に関西ローカルや大阪の放送局製作番組に出演していた。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など[注 1]。 個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)代表取締役[注 2]、大阪を盛り上げるために創設された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン[6] および理事長[7] などを歴任した。 死後、やしきたかじんの肖像・楽曲などの権利関係はP.I.S及びP.I.S音楽出版とOffice TAKAJINが主張している状態である[8][9]。 人物・経歴[編集] 生い立ち[編集] 大阪市西成区で男ばかり4人兄弟の次男として誕生。父親の権

  • YouTube - 最高TVタモリ 小松政夫 真行寺君枝 1981年

    最高TVタモリ 小松政夫 真行寺君枝 『今夜は最高』 再アップ↓ http://www.youtube.com/user/matasakujo2#p/u/4/afb987P28NY

  • 団しん也 - Wikipedia

    団 しん也(だん - や、名:五十貝 勝(いそがい まさる)[1]、1944年〈昭和19年〉4月16日 - )は、群馬県富岡市出身の芸能人。 歌手、ジャズシンガー、芸人、コメディアン、声帯模写、司会者、俳優、声優などの多彩な顔を持つ。日屈指のエンターテイナーかつ、格的なボードビリアンとしてテレビ・舞台・ライブなどで多岐に活躍している。 富岡市ふるさと大使。 略歴[編集] 1962年、高校生の時、素人ものまね番組TBS『歌まね読』で優勝。 1963年、群馬県立富岡高等学校を卒業して上京し、古賀政男の内弟子となる。のち水時富士夫(作曲家)の門下生に。 1966年、ポリドール・レコードより『あいつにゃあいつの夢がある』でレコードデビュー。 1974年、『日演芸大賞』の漫談部門で優秀賞。 1981年、六木ジャズライブハウス「バレンタイン」のジャズボーカリストとなる。 1992年、東京F

  • 前田武彦 - Wikipedia

    前田 武彦(まえだ たけひこ、1929年〈昭和4年〉4月3日 - 2011年〈平成23年〉8月5日)は、日の男性タレント・放送作家・テレビ司会者。三桂所属。愛称はマエタケ。 人物[編集] 1960年代、それまで台を読み上げる形式が一般的だった放送司会に「フリートーク」「楽屋オチ」「世間話」といった手法を持ち込み、最盛期にはその毒舌と絶妙な話術から「フリートークの天才」と呼ばれた。 思想的には左派であり、自らが司会するテレビ番組で日共産党の候補が選挙で当選したことを礼賛したことで以後10年近くテレビ業界から干された。司会や脚家のほか、作詞家として平井和正原作のアニメ『エイトマン』の主題歌の作詞(萩原哲晶作曲、克美しげる歌唱)もしている。血液型はA型。趣味はヨットで、ヨット関係の月刊誌に連載コラムをもっていた。 生涯[編集] 生い立ちから放送作家へ[編集] 1929年、東京府東京市芝(

  • 大橋巨泉 - Wikipedia

    大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年〈昭和9年〉3月22日[1] - 2016年〈平成28年〉7月12日)は、日テレビタレント、放送作家、元参議院議員。 テレビ司会者のほか、競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家としての活動も行い、馬主でもあるなど、日のマルチタレントの先駆けとなった。 実業家・芸能プロモーターとしてオーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)を創業し、取締役会長を務めたほか、海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営するオーケーギフトショップグループの取締役社長を務めた[3]。オーケーエンタープライズ所属。 名は大橋 克巳(おおはし かつみ)[4][注 2]。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。なお、多くの芸能人や関係者・視聴者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近かったため、稿では人の人称を巨泉と記述する。 生涯

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  • 立花隆 - Wikipedia

    文藝春秋読者賞(1974年) JCJ賞(1975年) 講談社ノンフィクション賞(1979年) 菊池寛賞(1983年) 毎日出版文化賞(1987年・2014年) 新潮学芸賞(1991年) 大川出版賞(1993年)[2] 日文化デザイン大賞(1997年) 司馬遼太郎賞(1998年) オメガ賞(1998年) NHK放送文化賞(1998年)[1] 吉田秀和賞(2016年) 立花 隆(たちばな たかし、名:橘 隆志 1940年(昭和15年)5月28日 - 2021年(令和3年)4月30日)は、日のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる[3]。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ[4]。 1974年(昭和49年)、『

  • 妹尾河童 - Wikipedia

    妹尾 河童(せのお かっぱ、名同じ、旧名:妹尾 肇(せのお はじめ)、1930年(昭和5年)6月23日 - )は、兵庫県神戸市生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家。 自著『河童が覗いた』シリーズでの緻密な手書きイラストレーションでも知られている。はエッセイストの風間茂子。 人物・来歴[編集] 神戸で洋服屋の長男として生まれる[1]。 小学生の時、芥川龍之介の『三つの宝』を裕福な友人から借りたくて、その友人が冗談で出した「空中2回転が出来たら貸す」という条件を鵜呑みにして失敗、肩から落下し骨折した経験がある。自体は友人が父親に内緒で貸し出した。 1947年(昭和22年)、小磯良平に憧れ兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫県立兵庫高等学校)に進む。在学中は小磯に師事してデッサンを学んだ[1]。家を空襲で失い、学校に住むことになったが、教室を等分してすのこで区切ると

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  • 柳田國男 - Wikipedia

    柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日の民俗学者・官僚。大日帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。日学士院会員、日芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日人とは何か」という問いの答えを求め、日列島各地や当時の日領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。 生涯[編集] 柳田國男の生家(兵庫県福崎町) 布川での居宅(茨城県利根町) 柳田國男(1951年) 生い立ち[編集] 1875年(明治8年)7月31日、飾磨

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