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imaginationに関するschillasalのブックマーク (3)

  • 同性間DVの取り組みから学んだ「公共的想像力」(ミーガン法 Part 6) - macska dot org

    まえのエントリでわたしが「当に性暴力を無くすためには、『自分も加害者になっていたかもしれない』という想像力を持つことが必要である」と書いたのに対し、なんばさんから個人的あるいはリベラリズムという観念的なレベルでは同意するとしつつも、現実に小児性愛やサディスティックな欲望とも無縁な「一般の善良な人」にそういう想像力を求めるのは無理ではないかというコメントがある。さらに、そのなんばさんの発言を読んだ matuwa さんも、もとからリベラリズムの立場に共感している人以外の人たちに納得させるのは難しいというコメントをしている。なんばさんの発言については先にレイ・ワイヤ&ティム・テイト著「なぜ少女ばかりねらったのか」の話題の方にコメントしてしまったけど、この話題も重要なのでもう少し考えをまとめてみる。 なんばさんの図式に入れて考えてみると、わたしは小児性愛者でもないし、サディスティックな性的欲望も

    同性間DVの取り組みから学んだ「公共的想像力」(ミーガン法 Part 6) - macska dot org
    schillasal
    schillasal 2006/02/11
    "単なる「偶然」にすぎないことを知っている。"
  • どうしようもなく差別者であることと向き合うこと - モジモジ君のブログ。みたいな。

    あえて「実感のない理念」と呼ばれるものを振りかざしてみる。 意識されない差別性 1つの仮想的なストーリー。 自閉症などの社会性の障害がある人が、実親の死後、頼る相手も有効な支援もなく、生活を持ち崩してホームレスになり、病気になって担ぎ込まれる。治療を行って退院しても、そこに有効な支援があるわけでもないから、当然同じことを繰り返して何度でも病気になって担ぎこまれることになる。担ぎ込まれる病院の医師が、このホームレスの診療を行う。過酷な労働条件におかれている研修医が、その無駄さ加減に慨嘆したくなるのも分からないではない。しかし、次のように述べることは何を意味するのか。 なんだか、悲しくなってしまった。 私が一生懸命払っている税金は、彼のような人の医療費に消えていくのかもと考えた。 彼は、日陰の人生を歩んできたかわいそうな人と言えなくもないけれど、でもね、 一生懸命働いている自分が出している税金

    どうしようもなく差別者であることと向き合うこと - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね - 偉い偉い研修医大先生へ苦言

    陽だまり日記 こういう小言めいたトラックバック記事は、書いてて、幼稚園の砂場で玩具を取られて涙ぐんでいる子どもを慰めているような気分になるが、こういう幼い詠嘆は早めに卒業しておかれる方がなにかと為になる。ちと酷だがあれこれ申し上げることにする。 まず私はこの記事が非常に不愉快である。それは申し上げておく。私が筆致を抑えているように思われたら、それは彼女への気遣いではなく自分の品位への気遣いだと思われたい。 Mari先生の時とはずいぶんと態度がちがうじゃねえかというご指摘はたぶんあるでしょうがこの人とMari先生との差はけっこう大きいと思うので。同じ診療科の身びいきかもしれませんが。でも、うまく言語化できないけれど、なにか違います。やっぱり。 医療現場には考えたら動けなくなる現実が普通に横たわっている・・・って、この場合は先生の考えが足りないから動けないのである。この記事にある、「定職に着い

    こどものおいしゃさん日記 おおきくなりたいね - 偉い偉い研修医大先生へ苦言
    schillasal
    schillasal 2005/08/25
    "弱者に対する厳しい眼差し" 正しいんだけど…。自己の職業意識が高いと同業者には厳しくなる…。
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