興福寺の仏像について 平城京は唐の都であった長安の都市計画をとり入れ、3年がかりで建設されました。 宮城(大内裏という)の正面から南へ道幅85メートル、長さ3.8キロの朱雀大路が走り、これを中心として南北5キロ、東西4.5キロほどの広さの所に東西南北に碁盤の目のように規則正しく、道の幅約28メートルのメインストリートを配した壮大な都市で、ここに大きな中国風の宮殿やお役所の建物が立ち並んでいたといわれています。 その頃日本の全人口は500百万人、平城京の人口は20万人ぐらいと推定されています。 この新しい都が出来上がると、それまで都があった飛鳥の里や藤原京のあたりに建てられていた薬師寺、大安寺、元興寺などの大きな寺はつぎつぎとこの新しい都に移転してきました。 藤原氏の氏寺である興福寺は669年(天智天皇八年)に藤原鎌足の妻である鏡女王が夫の造った釈迦三尊を安置するため山階寺(やましなでら)を
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く