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アルバート・アイラー セシル・テイラーの検索結果1 - 6 件 / 6件

  • ロバート・クワイン ロングインタヴュー(November 1997)|kido hideaki

    ジェイソン・グロス氏によるインタヴュー (November 1997) ロバート・クワインとは?彼によれば「音楽史の中で最も説得力はあるが、憎悪され、万人受けしない人物の一人である」という。その意見が少し寛大すぎるとすれば―ケネス・コールマンはクワインへのオマージュを次のように書いている―「クワインはリチャード・ヘル、ルー・リード、ブライアン・イーノ、トム・ウェイツ、マシュー・スウィートなどとたまたま一緒に仕事をしたサイドマン、協力者であり、彼らの音楽の重要な一部でもあり、批判的に彼らの音楽を支えてきた」と。彼の仕事のほとんどはこれらの有名なパフォーマーとの仕事なので、彼自身が有名になったわけではない。彼のギタープレイは確かにそれを正当化するのに十分な特徴を持ってるが、実際のところ、彼の名前が挙がっているアルバムは2枚しかない(いずれもコラボレーション)。それでも、彼の作品を知る人は誰もが

      ロバート・クワイン ロングインタヴュー(November 1997)|kido hideaki
    • 【ミルフォード・グレイヴズ追悼】 ひとつの音、一人の人

      text by Shuhei Hosokawa  細川周平 photo ©1977 Toshio Kuwabara 桑原敏郎 ミルフォード・グレイヴズ(1941-2021)の訃報を聞いて、「世界からひとつ音が消えた」という感慨に襲われた。気取った言い方かもしれないが、それだけ強烈な印象を残した音と人だった。人となりとサウンドがこれだけ一体化したアーティストは唯一無二だったと思う。60年代のフリージャズの開拓者の一人として一般には知られるが、最初の10数年を除けば、ジャズ本流にはあまり関わらず、フリー・リズムにもとづく即興を究めた打楽器奏者というほうが全容を捉えているだろう。数度の来日公演の記憶から追悼してみたい。 初めて聴いたのは1981年のデレク・ベイリーと田中泯のトリオ(MMD)、表現手段の違う三者が対等に反応し合って、即興の極みに達したようなパフォーマンスに圧倒された。〈踊る〉と〈叩

        【ミルフォード・グレイヴズ追悼】 ひとつの音、一人の人
      • Milford Graves With Arthur Doyle & Hugh Glover | ele-king

        Home > Reviews > Album Reviews > Milford Graves With Arthur Doyle & Hugh Glover- Children of the Forest 森は、不可知の風景であり、深い知識が集積した生態系の謎が散乱しているが、その謎は生態系そのもののみが知り得る。森は、森自体が脈動する惑星で、自らを養い、存在し、再生していくことができる。一方、人間は年齢に関係なく怖がりの赤ん坊であり、真の自由に戸惑い、未知なるものへの不安に尻込みしてしまう。ミルフォード・グレイヴスによるこの黄金の宝に、なぜ「森の子どもたち」というタイトルがつけられたのかを想像してみると、ライナーノーツに書かれているように、グレイヴス自身が所有していた音源のテープは“Pygmy”(ピグミー)とラベリングされ、アルバムの内容とは関係のないオーディオ・ドキュメンタリーが収録

          Milford Graves With Arthur Doyle & Hugh Glover | ele-king
        • Eli Keszler | ele-king

          初めてイーライ・ケスラーの音楽を聴いたとき、全身に稲妻のような衝撃が走ったことを今でもよく覚えている。全く新しいタイプのドラマーだと思った。あまりにも斬新で、攻撃的かつ快楽的なサウンドだと感じた。あれは2010年に〈ESPディスク〉からリリースされた『Oxtirn』だっただろうか。あるいはその2年後の2012年に〈PAN〉から出た『Catching Net』を先に聴いたのかもしれない、ともかく散弾銃のように無数の小さな音の礫が降り注ぐ聴覚体験は実に新鮮なものだった。かつて1960年代にやはり〈ESPディスク〉からリリースされたアルバート・アイラーの傑作『Spiritual Unity』にも参加しているドラマーのサニー・マレイは、定型ビートを刻むのではなく五月雨のようにシンバルをひたすら叩くことで装飾的なノイズを生み出す革新的なパルス奏法を確立したが、粒子状の打撃音を過剰なまでに高速で散りば

            Eli Keszler | ele-king
          • interview with Keiji Haino | ele-king

            あの体験がなかったら、ポップ・スターになっていたかもしれないよね。音楽の何に着目するかで、その後の音楽家としての生き方が全然違ってしまったわけで。 ■ダムハウスのアニキ ■73年に京都にしばらく滞在していたそうですね? 灰野:銀閣寺の近くにあるダムハウスという喫茶店ね。俺がアニキと呼んでいるそのマスター飯田さんと最初に会ったのは渋谷のアップルハウスだった。オシメが浅海さん(ロスト・アラーフの初代ピアニスト浅海章)と出会い、ロスト・アラーフ結成のきっかけにもなった場所で、ビートルズ・シネ・クラブの本部があった場所。俺も時々行ってて、京都からふらりと遊びに来たアニキとそこで出会った。ジャズやブルースに非常に詳しい彼から、「ジャズを聴いた方がいいよ。君だったらいつ来てもうちに泊めてあげるから」と言われたんだ。当時俺はジャズにはほとんど興味がなかったんだけど、時間もあったので、京都まで行ってみた。

              interview with Keiji Haino | ele-king
            • 1960年代のカウンターカルチャー - Wikipedia

              ハリウッドにあるビートルズの☆型タイル。ビートルズはカウンター・カルチャーを代表するグループの一組だった。 本記事では1960年代のカウンターカルチャー(1960ねんだいのカウンターカルチャー、対抗文化)について記述する。 1960年代のカウンターカルチャーは当初、イギリスとアメリカ、西ヨーロッパ諸国で発生した。その後、1960年代半ばから1970年代前半にかけて、日本やブラジルなど世界各地に拡散した。サンフランシスコ、パリ、ロンドン、ニューヨークなどの都市は、カウンターカルチャーの拠点となった。 はじめに[編集] 当時、市民権運動は拡大しつづけていた。それは、ベトナム戦争[1]へのアメリカ政府の軍事介入がひろがってゆくのにともなって、やがて革命的なものになった[2][3][4]。 1960年代は、ほかの問題についても社会的な緊張がひろがった。たとえばセクシュアリティ、女性の権利、伝統的な

                1960年代のカウンターカルチャー - Wikipedia
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