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ルイ2世 フランス王の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 「ビーファハウツフェルツの戦い(1382年)」欧州火薬兵器戦史上の画期 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    「ビーファハウツフェルツの戦い(オランダ語” Slag op het Beverhoutsveld ”,英語” Battle of Beverhoutsveld ”(ベヴェルフーツヴェルドの戦い))」(注1)は1382年5月3日、フィリップ・ファン・アルテフェルデ率いるヘント市軍がブリュージュ(ブルッヘ)市近郊(現在のベルギー王国フランデレン地域ウェスト=フランデレン州)でフランドル伯に与するブリュージュ市軍を撃破した戦い。英仏百年戦争の最中におきたヘント反乱(” Revolt of Ghent ”1379-1385)の重要な戦いで、欧州戦史上、火薬兵器が勝敗に決定的な影響を与えた最初の戦闘として知られる。 戦闘の背景「ヘント反乱」十二~十三世紀から毛織物工業が栄えたフランドル諸都市では貿易相手としてイングランドとの関係が深まったが、百年戦争が始まると領主であるフランドル伯はフランス王に与

      「ビーファハウツフェルツの戦い(1382年)」欧州火薬兵器戦史上の画期 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    • 『百年戦争-中世ヨーロッパ最後の戦い (中公新書 2582) 』佐藤猛 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

      ヨーロッパ中世後期、フランスを主戦場にして戦われた百年戦争(1337~1453)について、近年の研究動向を充分に盛り込んでその全体像を描く、一般向けの概説書である。2020年3月17日発売。新書サイズで読める百年戦争の通史として実にわかりやすく要点が抑えられていて、今後、長く読み継がれる定番になるだろう。 ヨーロッパ史上の戦争としてはジャンヌ・ダルクの活躍もあって「百年戦争」はおそらく日本で最も知名度がある出来事だろう。著者は「しかし、彼女(引用者注:ジャンヌ・ダルク)が活躍した戦争の名をすぐに答えることのできる者は、どれほどいるだろうか」(はじめに i)と危惧するが、大丈夫。映画からアニメ・ゲームまでジャンヌ・ダルクの知名度は過去最高に高まっているし、「百年戦争」の響きのキャッチーさもあって「百年戦争」自体の知名度も抜群だ。アストラギウス銀河を二分した方で知った人は多いはず(自己紹介)

        『百年戦争-中世ヨーロッパ最後の戦い (中公新書 2582) 』佐藤猛 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
      • フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー

        フジェール城(” Château de Fougères”)はフランス・ブルターニュ地方(現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県フジェール)にある城塞。ブルターニュ地方とノルマンディー地方の境界にあり、フランスの歴史上、ブルターニュ地方の要衝として繰り返し戦いの舞台となった。公益財団法人日本城郭協会選「ヨーロッパ100名城」の一つ。 築城最初の城は十一世紀、一帯を支配するようになったフジェール家(注1)が築いた。十二世紀、ブリテン諸島からフランス西半分にいたる広大な領域を支配しアンジュー帝国を樹立したイングランド王ヘンリ2世は、1166年、ブルターニュへ侵攻し、フジェール城を攻略した。このとき破壊された石造のドンジョン(天守塔)の遺構が現在も残っている。 このあとブルターニュ公コナン4世はヘンリ2世の子ジョフロワと娘コンスタンスの結婚並びに譲位を承認し、ブルターニュ公領はアンジュー

          フジェール城” Château de Fougères”~フランス史を動かし続けた要衝 | Call of History ー歴史の呼び声ー
        • 1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機 - hanna_and_art’s blog

          世界史には「アンリ」という名前がよく出てきます。今回はフランス王の「アンリ」の恋と、彼の親戚のコンデ公「アンリ」の逃避行のお話です。 元のファイルを確認していただけるように、wikipedia(public domain)のものは記事の最下部にまとめて、commons やそれ以外のものはそれぞれの画像左下にリンクを張ってあります。 フランス王アンリ4世(1553年12月13日 - 1610年5月14日) マルグリット・ド・ヴァロワ(1553年5月14日 - 1615年5月27日) 1572年8月24日、サン・バルテルミの虐殺 寵姫ガブリエル・デストレ(1571年 - 1599年4月10日) 王妃マリー・ド・メディシス(1575年4月26日 - 1642年7月3日) シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー(Charlotte-Marguerite de Montmorency、159

            1609年、コンデ公アンリとシャルロットの「罪なき誘拐」と戦争危機 - hanna_and_art’s blog
          • 百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで | Call of History ー歴史の呼び声ー

            アルマニャック派(” Armagnacs”)は1410年、台頭するブルゴーニュ公ジャンへの対抗としてオルレアン公シャルル、アルマニャック伯ベルナール7世、ベリー公ジャンら有力諸侯が結成した反ブルゴーニュ派同盟。イングランド軍の侵攻後は、王太子シャルル(のちのシャルル7世)を擁してブールジュを本拠地とした勢力の総称となった。名称の由来は主力となった南フランスの有力諸侯アルマニャック伯から。1420年代後半、シャルル7世政権内に親ブルゴーニュ派が台頭し、1435年のアラス和約においてフランス王シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ3世との和解が成立したことで消滅した。 オルレアン公ルイ暗殺事件1337年に始まったイングランドとフランスの百年戦争は、1385年のフランス軍によるイングランド上陸作戦の失敗を最後に、1389年に結ばれたレウリンゲン休戦条約が随時更新され続けることで恒久的な平和が訪れ

              百年戦争「アルマニャック派」とは何か、成立から消滅まで | Call of History ー歴史の呼び声ー
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