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排日の検索結果1 - 19 件 / 19件

  • 新聞社・通信社が戦前・戦中に発行した写真集~~『関東震災画報』『時局及排日ポスター写真帖』『支那事変写真帖』

    戦前・戦中に新聞社が多くの写真集を出版している。新聞社のカメラマンが国内外で撮影したものがほとんどだと思うのだが、言葉で書くよりも現場で撮影された一枚の写真の方がはるかに説得力があるので、時々覗いていい写真があればブログの記事に利用させて頂いたりしている。 戦前・戦中に新聞社が編集した書籍についてはいずれも著作権保護期間が終了しているのだが、国立国会図書館デジタルコレクションのルールでは、保護期間を終了した出版物のデジタルデータはネット公開されることになっているものの、未だに公開されていないものが少なくない。今回は、貴重な写真だと思うものをいくつか紹介させて頂く。 大阪毎日新聞社刊『関東震災画報』 関東大震災に関してはいくつかの新聞社が写真集を刊行しているが、大阪毎日新聞社の『 関東震災画報 』全三巻のうち二巻がネット公開されている。ほとんど画像ばかりの本なのだが、迫力のある写真が少なくな

      新聞社・通信社が戦前・戦中に発行した写真集~~『関東震災画報』『時局及排日ポスター写真帖』『支那事変写真帖』
    • 英国が中国に排日運動を焚きつけ、国際連盟を利用し我が国の孤立化を図った事情~~石丸藤太『大英国民に与う』

      石丸藤太(いしまる とうだ)は明治四十三年に海軍砲術学校教官となり、大正四年に少佐となって予備役になると、評論活動に入り多くの著作を残したのだが、GHQは彼の13点もの彼の著作を焚書処分している。 今回は昭和11年に刊行された『大英国民に与う』という本の一部を紹介したい。 巧妙な英外交 日支事変中「三分間四十五ドル」の高い無電料を払ってまで、連盟を指導したアメリカの前国務長官スチムソンが、 「九国条約、不戦条約に違反してできた満州国は承認しない!!」 と、啖呵を切ると、 「何を小癪な!!」 とばかりに、アメリカに対して反感の焔を燃やしたわが国民も、連盟とアメリカの背後の楽屋には英国という巧妙な俳優が控えて、袖を引いていたことは、余りにもご存じなかったようである。 「英国は七分通り連盟を動かしつつある」 「十三対一の芸当をやらした当の張本人は英国だ」 「英国は最後の場合になって、日本に背負い

        英国が中国に排日運動を焚きつけ、国際連盟を利用し我が国の孤立化を図った事情~~石丸藤太『大英国民に与う』
      • 英米が排日運動を仕掛けたのは中国だけではなかった

        前回の「歴史ノート」で、長野朗著『支那三十年』に中国の排日運動の始まりである「五四運動」には英米人が関与していたことが記されていることを紹介したが、このことは当時多くの新聞が報じているので間違いないだろう。 「五四運動」に関する当時の新聞記事 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(23-027) 上の画像は大正八年(1919年)五月六日付の大阪朝日新聞記事だが、北京で起きた五月四日の暴動事件(五四運動)に「某国宣教師」が煽動したことが報じられている。 では、どこの国の宣教師がいつ頃から排日工作を開始したかという点については、同年四月二十五日付の大阪朝日新聞の記事が参考になる。 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(23-014) パリに於て講和会議の開かれてより以来、支那の対日感情悪化はますます熾烈なるが如し。 最近にては、支那商業の中央大動脈とも称すべき揚子江一帯の重要都市に

          英米が排日運動を仕掛けたのは中国だけではなかった
        • 排日宣伝戦はさらに強まって行った 新聞記事で読む宣伝戦6

          さらに強くなった排日宣伝と年々減少していった対支輸出 前回は昭和8年の「宣伝戦」に関する新聞記事を採り上げさせていただいたのだが、今回は昭和9年以降の記事をいくつか紹介させていただく。 昭和8年にわが国は国際連盟を脱退したのだが、その後欧米列強の排日宣伝は強まるばかりであった。 国際連盟脱退以来日本に対する列強の思想、政略戦はいよいよ猛烈に露骨となって来た。 先ず露国の対日赤化工作は我が国家組織を破壊し一朝有事の際祖国敗戦主義を以て国内を攪乱せんとするもので、ハバロフスクを始め欧露の各無電台より猛烈な排日放送を行うと共に、我が国内に於ては第三インターを通じ所謂左翼分子を踊らしてその策動を続けて居り、過般の浜松楽器争議に於て露国大使館員の手を通じ一万円の赤化資金がばらまかれた事実が最近に於て明かとなっている。 次で支那をみるに日支関係好転説を唱える者もあるが、南京の無電台は露のハバロフスクに

            排日宣伝戦はさらに強まって行った 新聞記事で読む宣伝戦6
          • 中国の排日運動がその後反帝国主義運動となり日本だけが排斥された経緯

            前々回の歴史ノートで、北京で排日運動が始まったのは一九一九年に開催されたパリ講和会議でわが国が提案した人種差別撤廃案が否決されたわずか二十二日後であり、その背後に英米人の煽動があったことを書いた。その後中国の排日は、どのように拡大していったのだろうか。 中国排日運動の変化 GHQ焚書である長野朗の『支那三十年』に、中国の排日運動の変化について詳細に解説されている。 第一段階では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを開始した。 第二段階では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。第三段階以降について長野はこう記している。 第三期になって来ると、国民政府*が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を

              中国の排日運動がその後反帝国主義運動となり日本だけが排斥された経緯
            • 北京で排日運動が開始された背後に英米人の煽動があった

              前々回の「歴史ノート」で、第一次大戦後の一九一九年に開催されたパリ講和会議で、わが国が提案した人種差別撤廃案が否決されたことからアメリカ各地で黒人暴動が起きたことを書いたが、中国の排日運動がいつから始まったかを調べると、パリ講和会議において、人種差別撤廃案が賛成多数であったにもかかわらず、議長であったウィルソン米大統領が「全会一致でないため提案は不成立である」との理由で否決した日からわずか二十二日後に北京で大規模な排日運動(「五四運動」)が行われているのである。 「五四運動」はなぜ起きたのか このブログで中国研究者の長野朗の著作を何点か紹介させて頂いたが、彼は陸軍の軍人として辛亥革命後中国に派遣され、「五四運動」が始まった頃には北京の中国人の家に下宿していて、「排日運動」の始まりを自分の眼で見て来た人物である。 長野は大正十年(1921年)に中国問題に専念するために軍を辞し、その後共同通信

                北京で排日運動が開始された背後に英米人の煽動があった
              • 中国、「排日」真っただ中の支援 識者「近代災害協力の原点」―関東大震災100年:時事ドットコム

                中国、「排日」真っただ中の支援 識者「近代災害協力の原点」―関東大震災100年 2023年08月27日07時05分配信 関東大震災について報じる、当時の中国有力紙「申報」の1923年9月3日付紙面のコピー 【温州(中国浙江省)時事】1923年の関東大震災では、反日感情が高まっていた中国でも日本支援の動きが広がった。当時の新聞は連日、被害状況を詳報。中国人の虐殺事件が伝わった後も、支援は止まらなかったという。 <関東大震災100年>関連記事をもっと読む 中国では、日本政府が権益拡大を要求した対華21カ条要求(15年)や、同要求に抗議した五四運動(19年)で対日感情が激しく悪化。20年代には全国で排日運動が繰り広げられていた。 こうした中、当時の中国有力紙「申報」は23年9月2日、ロイター電を引用し、震災を報道。翌3日には社説で「迅速な援助」を呼び掛け、各地から官民の支援申し出が相次いだ。 関

                  中国、「排日」真っただ中の支援 識者「近代災害協力の原点」―関東大震災100年:時事ドットコム
                • 日露戦争中に始まったカリフォルニア州地方紙の排日キャンペーン

                  前回の歴史ノートで、南満州鉄道を日米共同で経営しようとする鉄道王ハリマンの提議を小村寿太郎が反対し、桂首相がハリマンと交わした覚書を反故にした頃からアメリカの排日運動が本格化していったことを書いたのだが、アメリカの排日運動はその少し前からカリフォルニア州で発生していて、話の順序として、日本人がこの州に移り住んだ経緯から述べることとしたい。 カリフォルニア州の支那人が排斥されたのち日本人移住者が急増した 実は、日本人が移住する前には大量の支那人がこの地域に住んでいたのだが、のちに排斥されることとなった。なぜ支那人が排斥されたかについては、これからわが国でも同様な問題が起こり得ると思うので少し触れておこう。 勝井辰純 著『猶太(ユダヤ)人の陰謀と排日問題』(GHQ焚書)によると、一八六一年以降支那人移民が急増し、一八八二年には一年間で三万九千五百七十九人が増加し、累計では二十一万四千七百八十九

                    日露戦争中に始まったカリフォルニア州地方紙の排日キャンペーン
                  • 中国は満州事変をどう伝えたか~~大泉忠敬『支那新聞排日ぶり』(GHQ焚書)を読む その1

                    以前このブログで、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「個人向けデジタル化資料送信サービス」の手続きをすることにより、GHQ焚書の大半が自宅のPCなどで読めるようになったことを書いたが、このサービスの手続きをすることで閲覧できるようになったGHQ焚書のなかから、読者の皆さんにとって興味深いと思っていただけそうな本を今後紹介させて頂きたいと考えている。 今回は昭和六年に先進社から刊行された大泉忠敬『支那新聞排日ぶり』という本を採り上げることにしたが、お隣中国の排日・抗日状況については戦前戦中に多くの本が刊行されており、少なからずの作品がGHQで焚書処分されている。 編著者の大泉忠敬については、東京日日新聞社経済部長の杉山幹が記したこの本の序文に「第一外国語学校教授たる大泉君、若き支那研究科である」と書かれているのだが、「近代文献人名辞典」で調べても「生没年不詳」と著書にこの本が記されてい

                      中国は満州事変をどう伝えたか~~大泉忠敬『支那新聞排日ぶり』(GHQ焚書)を読む その1
                    • 満州事変後の中国の世論工作~~大泉忠敬『支那新聞排日ぶり』(GHQ焚書)を読む その2

                      満州事変直後、ソ連もアメリカも出兵したと報じた中国 今もお隣の国の報道をそのまま信用することは危険だが、その点については昔も同様で、この国の新聞は平気で世界に嘘情報をまき散らす。満州事変が勃発したのは昭和六年九月十八日の夜だが、その直後に支那の新聞が報じていた内容は興味深いものがある。 支那側が、事件発生するや早くも、世界各国にまことしやかなデマを飛ばし、自国側を有利な立場に導いたことは前に記したところであるが、その後各国が如何に暴日に憤慨し、支那に同情を与えたかを記し、一は益々外国をして日本を牽制せしめ、一は国内に向かって政府の正義、悪逆日本を宣伝し、排日の気勢を煽ることにつとめた。遂には米国、露国の出兵記事とまでなって表れるに至った。 (九月二十一日民国日報) ◇ソヴィエトロシア出兵。鉄道守備の準備を開始す。 (天津発電) マンチュリ来電、ハルピン消息に拠れば、×××のソヴィエトロシア

                        満州事変後の中国の世論工作~~大泉忠敬『支那新聞排日ぶり』(GHQ焚書)を読む その2
                      • 第一次大戦終戦後の支那の排日 新聞記事で読む宣伝戦1

                        支那の排日を仕掛けたのは英米である 前回まで山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞には各国からわが国に宣伝戦、思想戦が仕掛けられていたことについて数多く報じられているので、戦前の日本人の多くがその点についてある程度理解していたものと考えられる。最初に紹介したいのは第一次世界大戦以降本格化していった支那の排日だが、以前にもこのブログで紹介させていただいたように、当初は英米が仕掛けたものである。 第一次世界大戦中の一九一七年にロシアで革命が起こり、一九一八年三月にソ連新政府はドイツと単独講和を行い戦線を離脱。五月にはアメリカが参戦することでドイツの敗北は決定的となり、十一月に休戦協定が結ばれて、第一次大戦は終戦した。 四年以上続いた大戦で、欧

                          第一次大戦終戦後の支那の排日 新聞記事で読む宣伝戦1
                        • GHQ焚書に描かれた、中国の排日運動を操った国~~長野朗『支那三十年』

                          前回の「GHQ焚書」で、長野朗著『民族戦』の一節を紹介したが、今回は、同じ著者の『支那三十年』(昭和十七年刊)の文章を紹介したい。長野朗は、中国で排日運動が始まった大正八年(1919年)に北京にいて、身近でその動きを観察した人物である。この本には、戦後の一般的な歴史書には絶対に書かれていない、中国の排日運動の実態が描かれている。文中の「欧州戦争」は、「第一次世界大戦」のことで、「休戦ラッパが鳴り響」いたのは、第一次大戦が終わった大正七年(1918年)十一月のことである。 私は北京で日本人の居留地から離れ、一人で支那人の家に下宿していたが、私のいたすぐ近所で排日の第一声が起こり、それから排日が抗日になるまで見物していたから、ここには北京政府時代の排日の起こった時から私の実見記を簡単に述べてみよう。 排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動(ごしうんどう)といわれている。やった

                            GHQ焚書に描かれた、中国の排日運動を操った国~~長野朗『支那三十年』
                          • 切腹したキリスト教徒 ―排日移民法への抗議― - 書痴の廻廊

                            大正十三年五月三十一日の陽が昇るや、榎坂にある井上勝純(かつずみ)子爵の屋敷はたいへんな騒ぎに見舞われた。 庭に、異物が出現している。 死体である。 白襦袢に羽織袴を着付けたひとりの中年男性が、腹を十文字に掻っ捌き、咽喉を突いてみずからつくった血の海に、うつ伏せに沈んでいたのであった。 (Wikipediaより、井上勝純) 「昨晩まで、確かにこんなものはなかった」 深夜、闇に紛れて侵入し、自害したのは疑いがない。 しかし何故、この庭先で――? 彼の面相を見知る者は誰もなかった。 疑念は死骸の前に置かれた遺書によって明かされる。宛先にはサイラス・E・ウッズ――現職の米国大使の名前が。 内容は、ほんの数日前合衆国大統領クーリッジが署名した、所謂「排日移民法」に対する抗議であった。 余が死を以って排日条項削除を求むるのは、貴国が常に人道上の立場より、平和を愛好唱道せられ、平和指導者として世界の重

                              切腹したキリスト教徒 ―排日移民法への抗議― - 書痴の廻廊
                            • 当時のアメリカ人ジャーナリストが記した中国の排日・抗日運動

                              中国で排日運動を仕掛けたのは英米であった 前回までの「歴史ノート」で四回に分けてGHQに焚書処分された長野朗の著作や当時の新聞記事を紹介してきたが、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが一九三八年十一月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。 この本の冒頭で著者は、アメリカ人の視点で、中国が排日に至った経緯について述べている。 アメリカを含む西洋列強は日本のドアを叩いた。農業国としての閉ざされた中世風の生活を止め、外国に向けて港を開き、世界貿易競争のエキサイティングな儲け話に加わるように誘ったのだ。しぶしぶと、いくぶんおずおずとアメリカやヨーロッパに若者を留学させた。やがて日本は、西洋諸国が新しく見出した保護すべき友人という立場から対等のライバルと見なす

                                当時のアメリカ人ジャーナリストが記した中国の排日・抗日運動
                              • 英米が仕掛けた「排日」に中国人が積極的に取組み「抗日」に至った経緯

                                前々回の「歴史ノート」で長野朗の『支那三十年』(GHQ焚書)を紹介させていただいたが、英米が仕掛けた「排日運動」に、その後中国人自身が積極的かつ組織的に取り組むようになり「抗日」に発展していった。今回は、その経緯についてもう少し詳しく観ていくこととしたい。 英米が仕掛けた「排日」と「親英米」の効果 長野朗は昭和十六年に上梓した『民族戦』(GHQ焚書)で次のように述べている。 …日清戦争までは、支那は大国として日本を蔑視し、日本はまた支那に敬意を表していたが、日清戦争の結果、その地位は顚倒した。次いで北清事変*、日露戦争を経て日本の地位が益々向上するにしたがい、支那はその積弱(せきじゃく:だんだんダメな国になっていること)を暴露してきた。 かくて日本が朝鮮を合邦し、関東州**を得、満鉄によって満州に進出し、さらに日独戦***により山東にまで迫るに及び支那の恐怖は漸く増大した。彼らは日本の進出

                                  英米が仕掛けた「排日」に中国人が積極的に取組み「抗日」に至った経緯
                                • 支那・朝鮮で排日運動が仕掛けられてわが国政府はどう動いたのか

                                  朝鮮では米国宣教師により独立運動が仕掛けられた 戦後の歴史叙述では、一九一九年三月一日にソウルで起きた「三・一独立運動」について、「日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動」とされ、三月一日以降朝鮮全土に拡大していったことや、北朝鮮も韓国も三月一日を記念日としていることは明記されているのだが、この運動もアメリカの宣教師の煽動により行われたことが、どういうわけか欠落しているのである。当時の新聞記事を紹介したい。当初は「某国」と国名を伏せられていたが、後に「米国」であることが各紙で報じられている。 大正8年3月11日 大阪新報 神戸大学新聞記事文庫 倫理及び宗教(2-39) 月初以来故李大王の葬儀を機会に朝鮮全道に亘て由々しき騒擾を発生したるは的確の事実なり。暴民は叫びて曰く、朝鮮独立すべしと。彼等は朝鮮の独立を実現せしむることが果して自国民族に大利益ありと思惟せるか。若し真に斯く

                                    支那・朝鮮で排日運動が仕掛けられてわが国政府はどう動いたのか
                                  • アメリカの黒人知識人たちは日露戦争後の排日運動をどうとらえたか

                                    これまで日露戦争以降のアメリカで排日運動が広まっていったことを書いて来たが、このような運動が全米に拡げられていった理由を考察するにあたり、アメリカの黒人たちが日露戦争に日本が勝利したことをにどう反応し、その動きに白人たちがどう対処したかという視点が必要であると考えている。 アメリカ黒人は日露戦争で日本が勝利したことを歓迎した レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本に、日露戦争をアメリカの黒人知識人たちがどうとらえたかについて、次のように記されている。 東アジアの覇権をめぐる争いを繰り返した後、日本とロシアは戦争に突入した。黒人知識人たちは、白人の国であり、ヨーロッパの列強のひとつであるロシアと、東洋の近代有色人国家、日本との戦争勃発の意味を探っていた。 『セントルイス・パラディアム』紙は「今世紀もっとも重要な歴史的事件」であるという見出し

                                      アメリカの黒人知識人たちは日露戦争後の排日運動をどうとらえたか
                                    • GHQが焚書処分した「排日」関連書籍~~勝井辰純『猶太人の陰謀と排日問題』

                                      このデータベースは、神戸大学の研究者が明治末から昭和45年にわたり切り抜いた様々な新聞記事約50万件という膨大なもので、経済、企業経営、貿易に関わる記事や、わが国や世界における重要事件の背景解説、といった内容の記事が多く、戦争に関する記事や大事件の報道記事などは殆んどない。 ありがたいことに、記事の画像だけでなく文字起こしがなされていて、難しい文字や画像ではわかりにくい文字も容易に読むことが出来る。検索で絞り込んだ記事を時系列で並べることにより、当時の日本人がわが国の置かれた状況を、どのように把握していたかを自宅のPCなどである程度知ることが出来るので、この時代に興味のある方は、利用されることをお勧めしたい。 冒頭で紹介させていただいた旧ブログの記事で、神戸大学図書館「新聞記事文庫」の検索により見つけた記事のいくつかを案内させていただいたが、戦前におけるアメリカや中国における反日活動は、い

                                        GHQが焚書処分した「排日」関連書籍~~勝井辰純『猶太人の陰謀と排日問題』
                                      • 日露戦争後に激化したカリフォルニア州の排日運動をアメリカの知識人はどう捉えていたか

                                        前回の「歴史ノート」で、カリフォルニア州で始まった排日運動が、アメリカのアジア戦略の中で利用されたことに触れたが、アメリカの知識人はこの時期のカリフォルニアで燃え上がった排日の原因をどう分析しているのだろうか。 アイルランド系移民がカリフォルニア州の排日運動を主導した カレイ・マックウィリアムス 弁護士資格を取得したのちカリフォルニア州移民・住宅局長を歴任したカレイ・マックウィリアムスが著した『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』という本によると、当時カリフォルニア州で働く外国生まれの移民の四分の一がアイルランド出身者で、アイルランド系移民のほぼすべてがサンフランシスコに集中していて、サンフランシスコの労働運動をリードしていた。彼らはアイルランド人移民を糾合するのに人種問題を取り上げるのが手っ取り早い事に気づき、州人口の一割にも達していた中国人移民を排除した後、中国人に代わって入

                                          日露戦争後に激化したカリフォルニア州の排日運動をアメリカの知識人はどう捉えていたか
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