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牧之原台地の検索結果1 - 2 件 / 2件

  • 徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地

    牧之原台地開墾の経緯 このブログで、明治元年に徳川家が駿府(静岡)に移封され、旧幕臣達の多くが無禄覚悟で静岡に移住したのだが悲惨な生活であったことを書いた。彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかったのだが、士族の中から、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が現われたのである。 岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて静岡で茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。 明治二年(1869年)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は旧幕臣である中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)の訪問を受けている。 この二人は、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護

      徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地
    • 牧之原台地のお茶のため?大井川【蓬莱橋ほうらいばし】は ながいきの橋!?でした。 - ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳

      静岡県の中央部を流れる大井川は かつて遠江国と駿河国の国境だった川で 中流域両岸は現在 島田市となっています。 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 と箱根馬子唄に謳われたように東海道の難所として知られていて 川を超えたい旅人は川越し人足に頼らなければなりませんでした。 大井川には架橋も渡船も江戸幕府の許しが降りなかったのです。 理由としては 大井川が江戸城の外堀の役割があるためとか 大御所政治をとった駿府城の防衛も兼ねているとか 水量が多く川幅が広いため架橋する技術が追いつかなかったとか 大企業並みに発展した川越人夫たちの生活を守るためなど いくつか唱えられています。 江戸幕府が終わりを迎えると 江戸から静岡へ移封された旧幕臣たちには牧之原台地が払い下げられ 輸出の主力となるお茶を生産するため開墾されていきました。 作業の効率を高めるため架橋したのが「蓬莱橋」で1879明治12年

        牧之原台地のお茶のため?大井川【蓬莱橋ほうらいばし】は ながいきの橋!?でした。 - ほぼ旅かなり旅ぜんぶ旅手帳
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