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  • 「グリコ・森永事件」の恐怖はコロナ禍に接続する。『罪の声』『レディ・ジョーカー』『突破者』…事件とメディアの激闘史 - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ

    大ヒット上映中『罪の声』のモデルとなった昭和屈指の未解決事件。作品中では実名を伏せられているが、1984年、大企業を脅迫した「劇場型犯罪」の卑劣さに迫っていた。「グリコ・森永事件」を忘れてはならない。ノンフィクションライター・近藤正高が、難事件と格闘したノンフィクション、フィクションを徹底ガイドする。 得体の知れない相手に世の中がおびえた 今年、新型コロナウイルスの感染拡大で世の中は一変した。とりわけ子供たちは、しばらく学校も休みとなり、家で過ごすことを余儀なくされ、この世には時に得体の知れないものにより、それまでなじんでいた生活や風景がガラリと変わってしまうということを、生まれて初めて知ったのではないだろうか。 人によって、そのことを知るのは、災害だったり戦争やテロだったりするのだろう。私と同世代、今の40代には、グリコ・森永事件がそうだったという人も少なくないはずだ。1984年、私が小

      「グリコ・森永事件」の恐怖はコロナ禍に接続する。『罪の声』『レディ・ジョーカー』『突破者』…事件とメディアの激闘史 - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ
    • 「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯

      1984年に江崎グリコ社長が何者かに誘拐されたことをきっかけに、食品会社を標的とする脅迫事件が相次いだ。いわゆるグリコ・森永事件である。容疑者はその風貌から「キツネ目の男」と呼ばれた。この「キツネ目の男」ではないかと疑われていたのが、宮崎学氏である。 宮崎氏は自らの半生を振り返った『突破者』(南風社、のちに幻冬舎アウトロー文庫、新潮文庫)で作家デビューすると、一躍論壇の寵児となり、次々に作品を世に放ってきた。体調を崩してからも創作意欲は衰えなかったが、残念ながら昨年刊行した『突破者の遺言』(K&Kプレス)が遺作となった。 忘れられない一節 宮崎学氏ほど差別を憎み、差別と戦った人はいない。氏の訃報に接し、その思いを改めて強くしている。 忘れられない一節がある。宮崎氏がデビュー作『突破者』につづった、上田という人物との思い出だ。 上田は宮崎氏の実家・寺村組の行儀見習いの住み込み若衆で、当時はま

        「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯
      • 「怒られる覚悟で…」テレ東“10人の突破者“が集結、異彩放つ新部署のたくらみ

        伊藤隆行プロデューサー(C)テレビ東京 テレビ東京の制作局に通称「伊藤部」が立ち上がった。率いるのは『モヤモヤさまぁ~ず2』『緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦』などヒットバラエティを手がける伊藤隆行プロデューサー。メンバーには『ゴッドタン』の佐久間宣行Pをはじめとする“癖が強すぎ”な10人のプロデューサーがそろう。テレビ離れが叫ばれる今こそ、テレビ業界にはびこる既成概念に囚われないやり方で、新たな収益を生み出そうというのが新部署のミッションにある。コロナ禍でバラエティ番組にも変化が求められるなか、気鋭のプロデューサーたちは一体何をもくろんでいるのか。伊藤Pに聞いた。 「視聴率は低いけど話題はスゴイ」、テレビ局も無視できなくなってきた事実 コロナ禍で、バラエティ番組の制作現場にも厳しい制約が課せられている。だが、それ以上に変化したのは「選ばれる番組とそうでない番組の差が鮮明になった」と、語

          「怒られる覚悟で…」テレ東“10人の突破者“が集結、異彩放つ新部署のたくらみ
        • 「スープとイデオロギー」のヤン ヨンヒ監督は、いかにして突破者になったか? その覚悟の凄みとオモニ

          ヤン ヨンヒ監督の新作ドキュメンタリー「スープとイデオロギー」が評判である。2度、3度見たという人も少なくない。韓国でも10月から全国上映が続いている。何度も見たくなる映画というのはダシがよいからである。済州4.3事件、「総連バリバリの家庭」、北朝鮮に渡った3人の兄、新しい日本人の相棒、母の老い。そしてヤンさんの表現者としての葛藤と突破の覚悟も、ダシとなって染み出ている。「スープとイデオロギー」に至るまでに何があったのか? ◆朝鮮大学校の卒業生たち 私がヤン ヨンヒさんと初めて会ったのは1993年初めの寒い日の夕暮れ時だったと記憶している。朝鮮大学校の卒業生で構成する劇団「パランセ」(青い鳥の意)の大阪市内の稽古場を取材で訪れた時だった。中心俳優の一人だったヤンさんは、長い体躯を折りたたむようにして稽古に備えてストレッチをしていた。 稽古場には朝鮮語と日本語の混ざった、いわば「ちゃんぽん言

            「スープとイデオロギー」のヤン ヨンヒ監督は、いかにして突破者になったか? その覚悟の凄みとオモニ
          • 「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯

            1984年に江崎グリコ社長が何者かに誘拐されたことをきっかけに、食品会社を標的とする脅迫事件が相次いだ。いわゆるグリコ・森永事件である。容疑者はその風貌から「キツネ目の男」と呼ばれた。この「キツネ目の男」ではないかと疑われていたのが、宮崎学氏である。 宮崎氏は自らの半生を振り返った『突破者』(南風社、のちに幻冬舎アウトロー文庫、新潮文庫)で作家デビューすると、一躍論壇の寵児となり、次々に作品を世に放ってきた。体調を崩してからも創作意欲は衰えなかったが、残念ながら昨年刊行した『突破者の遺言』(K&Kプレス)が遺作となった。 忘れられない一節 宮崎学氏ほど差別を憎み、差別と戦った人はいない。氏の訃報に接し、その思いを改めて強くしている。 忘れられない一節がある。宮崎氏がデビュー作『突破者』につづった、上田という人物との思い出だ。 上田は宮崎氏の実家・寺村組の行儀見習いの住み込み若衆で、当時はま

              「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯
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