私、加藤賢崇の母である、加藤春江(1929〜2009)が、16歳のとき、1945年8月6日に、広島市で被爆したときの体験を、1987年ごろに振り返った、手書きのノートを残したものが数冊ありました。 母の自宅は当時、爆心地から数十メートルの、本通りという商店街の中にありました。(おそらく、現在はうずしおというお好み焼き屋のあるあたり) しかし、母は原爆投下の瞬間は、そこから3キロほど離れた「被服廠」という軍服などを作る頑丈なレンガ造りの建物の中で学徒動員で働いていたため、命だけは助かりましたが、3キロ離れていても、こんなことになるのか、と手記を読むと驚きます。(ちなみに、この「被服廠」の建物は、現在も広島市の県立工業高校、皆実高校、という学校の横に残っていて保存されています。) 母が亡くなった後で、2011年頃からテキストに起こしたものを少しづつネットで公開していたのですが、読みやすさを考え