それに、「悟った、悟った」と言っても、 病気いかんによっちゃ、 「悟ったって苦しい」ということも あるわけです。 そんなことは、誰にもわかりはしない。 ですから、臨終の念仏に重きを置くという、 その考え方も間違いである、 そこも、親鸞は明瞭に言い切っている。 何が、何が大切なのか。 何もない、何もないんです。 とにかく宗教、つまり、浄土教のほうから 普通の人の生活のところに近づいていくより ほかにないよ、ということなんです。 近づいていくんだけど、 一緒にはどうしてもならない。隔たりがある。 そこをどうやって納得するんだ? ということは、 最後の最後まで詰めていっても、残る。 その、残ったところが、 親鸞が自分を 非僧非俗 (ひそうひぞく・僧侶でもないけど俗人でもない) と称して、 最後まで固執した理由なんです。 その、固執した理由が 浄土真宗というものの教義の中核で、 それ以外の、何もな