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ほぼ日刊イトイ新聞 - 親鸞 Shinran
それに、「悟った、悟った」と言っても、 病気いかんによっちゃ、 「悟ったって苦しい」ということも あ... それに、「悟った、悟った」と言っても、 病気いかんによっちゃ、 「悟ったって苦しい」ということも あるわけです。 そんなことは、誰にもわかりはしない。 ですから、臨終の念仏に重きを置くという、 その考え方も間違いである、 そこも、親鸞は明瞭に言い切っている。 何が、何が大切なのか。 何もない、何もないんです。 とにかく宗教、つまり、浄土教のほうから 普通の人の生活のところに近づいていくより ほかにないよ、ということなんです。 近づいていくんだけど、 一緒にはどうしてもならない。隔たりがある。 そこをどうやって納得するんだ? ということは、 最後の最後まで詰めていっても、残る。 その、残ったところが、 親鸞が自分を 非僧非俗 (ひそうひぞく・僧侶でもないけど俗人でもない) と称して、 最後まで固執した理由なんです。 その、固執した理由が 浄土真宗というものの教義の中核で、 それ以外の、何もな
2009/07/27 リンク