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考察に関するseita05のブックマーク (5)

  • ラピュタには何故自爆コマンドが用意されているのか: 不倒城

    バルスのことなんですけど。 大多数のネットユーザー諸兄はご存知かと思うが、バルスは天空の城ラピュタにおける「滅びの言葉」である。劇中ラストシーンにおいて、家伝の飛行石を手にしたシータとパズーが「バルス!」と叫ぶと、なんか飛行石がやたら光ってムスカさんが目が目が星人になったりラピュタがぶっ壊れたり、色々とエラいことになる。 「バルス=滅びの言葉」という図式の定着度・認知度はWeb上では恐ろしい程であり、ラピュタ放映時には実況板が「バルス!」の書き込みとAAで埋め尽くされるという。 まず考えなくてはいけないのは、このバルスという命令は一体何の為に用意されたAPIなのかということである。 ラピュタは人工物なので、当然設計者や開発者がいた筈である。そして彼らは、管理権限キーっぽい小さな飛行石に、複数のコマンドを用意している。「困った時のおまじない」であるとか、「滅びの言葉」がそれである。飛行石を身

  • 「インターネットではチャンネル争いが起こらない」 - シロクマの屑籠

    テレビを一人で観るようになったのはいつ頃からだったろうか。 昭和30年代の写真を探すと、町角で大勢の人がテレビを見ている風景を見かける。この頃のテレビは、かなりの確率で“みんなで観る”ものだった。一家に一台テレビが普及した後も、テレビはやはり皆で見るものだった。一家に一台しかないテレビだからこそ、“巨人、大鵬、卵焼き”という言葉や“チャンネル争い”という言葉が存在していたのだろう。 視聴番組を巡るコンフリクトがあった = 皆が自分の見たい番組だけ観ていたわけではないということでもある。大人が子ども向けアニメを観ざるを得ない時もあっただろうし、ニュースや時代劇を子どもが観ることもあっただろう。家族という小さな器のなかとはいえ、テレビは一人で観るものではなく、自分が観たいものを観たいだけ観れるものではなかった。 ところが昭和の終わりになると、ひとつの家庭がテレビやビデオデッキを複数保有する、そ

    「インターネットではチャンネル争いが起こらない」 - シロクマの屑籠
    seita05
    seita05 2013/02/28
    自分自身をチャンネルとして見てほしいという争いは至る所で発生している。
  • "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠

    ネットを眺めていてふと気付いた。 現在、日のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはないし、マスメディアも何わぬ顔で報道する*1。バッシングが公認される大義名分がある限り、責任者が唾を吐きかけられてもしようがないよねー、という不文律ができているらしい。 インターネット上での“炎上”も似ている。失言・過失・違法行為があったと判明し

    "叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠
  • 全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠

    ここ最近、「価値のあるボク」「価値のあるアタシ」といった肥大した自己イメージを、いつまでたっても抱えている男女がそこらじゅうに溢れています。つまり、全能感を捨てきれない大人達が増えているわけですが、彼らが全能感を維持するメカニズムについては、あまり取り沙汰されていないようです。 この文章では、全能感を維持したい・いつまでも子どもの王様のままでいたい人にありがちな、二つの処世術を確認してみます。 1.自分が得意な分野で、全能感を何度も確認する ひとつめは、ごくオーソドックスな方法。 自分の優秀さや自分のバリューを確認しやすい場所で、それを反復的に確かめる、という方法です。ここに書いたように異性をひっかけて自分の価値を確認する人もいれば、ネットゲームtwitterで優秀さや有能さを確かめたがるタイプの人もいます。この際どこでもいいから、とにかく自分が優秀でいられそうなフィールドをみつけ、自分

    全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠
  • 「歳の取り方」が分からなくなった社会 - シロクマの屑籠

    テレビをつけても、街を歩いても、「若さを保つためのテクニック」が溢れている。けれども「歳の取り方」はあまり目にすることが無いし、「歳を取る」ということを肯定的に教えてくれる人にもなかなか出会わない。「歳の取り方」は、いつ、どこで、誰から教わればいいのか?そう考えた時、自分が即座に答えられないことに気付く。 「歳の取り方」のロールモデルは何処へ? ここでいう「歳の取り方」というのは、生物学的な加齢現象のことではなく、心理・社会的な意味での「歳の取り方」だ。 人間は、まっすぐ一様に老けていくわけではない。社会経験や立場、人間関係のなかで、心の持ちようや振る舞いを年代ごとに変えていく生き物だ。世話される立場から世話する立場へ・教わる立場から教える立場へ……といったように、自分の立場をギアチェンジしながら世代を紡いでいく。少なくとも、かつてはそうだった筈だ。 ところが、今は、「歳の取り方」のお手

    「歳の取り方」が分からなくなった社会 - シロクマの屑籠
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